クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

歌劇<村のロミオとジュリエット>

2005年09月28日 | 作品を語る
前回、北欧フィンランドを代表する傑作歌劇<ポホヤの人々>を話題にしたので、今回はそのご近所であるイギリスから名作オペラを一つ取り上げてみようと思う。

イギリスには、例えばロシア、ハンガリー、チェコ、ポーランドなどで書かれたような「国民歌劇」は生まれなかった。と言うより、生まれる必要がなかった。(※そのあたりの事情は前回言及した国民歌劇の定義に照らして明らか、と言えるかも知れないが、また機会を見てこのテーマについてはゆっくり語ってみたいと思う。)しかし、イギリスでもオペラ(あるいは、その系統の作品)は結構書かれている。中でもバロック期のヘンリー・パーセルや、20世紀のベンジャミン・ブリテンあたりが特におなじみのビッグ・ネームと言えるだろう。しかし、その二人の大家による作品についてはまた別の機会に譲り、今回はフェイントをかけて(?)歌劇<村のロミオとジュリエット>について少し語ってみたい。

歌劇<村のロミオとジュリエット>は、近代イギリスの作曲家フレデリック・ディーリアスの4作目の歌劇にして、おそらく最高の傑作群に属する物と言ってよいものだ。ゴットフリート・ケラー原作による物語の基本的なプロットは、題名からも察せられる通り、シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』を土台にしている。

{ スイスのとある小さな村で、土地の領有権を巡って二人の農夫がいがみ合っていた。マンツ家のサーリ(=ロミオに相当)とマルティ家のヴレンチェン(=ジュリエットに相当)は、親たちの争いとは関係なく、純粋な幼なじみで、やがて成長してからはお互いに男と女として愛し合うようになる。しかし結局は、親たちの争いに端を発する事態の不幸な展開によって、村のロミオとジュリエットはシェイクスピア作品と同様に悲しい最期を迎えることとなる。 }

これは全6場から成るオペラだが、私が最も好きなのは何と言っても第4場だ。黄昏時、一人ぼっちで小さな火のそばに座っているヴレンチェンが、「暗くなったわ。そして、懐かしいお家での最後の悲しい夜」と歌うところなど、ディーリアス美学の最良の姿が聴かれる。(※実際、この信じられないほどに美しいメロディは、聴いたあとしばらく耳から離れない。)やがて青年サーリが登場し、共に愛し合う気持ちを確かめ合った後、二人は眠りに落ちる。そして、奇しくも同じ夢を見るのである。夢の中で二人は結婚式を挙げる。遠くから教会の鐘の音が鳴り響き、荘厳な行進の音楽が始まる。それから、二人を祝福する合唱の声。この場面の音楽を聴いていると、私は<パルシファル>の聖杯の儀式を連想してしまう。場面としては全然違うものなのだが、何だか雰囲気がよく似ている。これは現実には叶うことのない、二人の哀しくも美しい夢の音楽である。

続く第5場は、若い二人が連れ立って訪れるお祭りの情景。ここでは、かなり賑々しい音楽が聴かれる。ディーリアスにしてはやや珍しい感じの音楽だが、決して特殊な例という程のものではない。

しかし、このオペラの中で最もファン(所謂オペラ・ファンや、ディーリアス・ファン)に支持されているのはおそらく、あの有名なThe walk to the Paradise Garden(=楽園への道)に導かれる最後の第6場だろう。開始部の合唱も美しいが、何と言ってもラスト・シーンが素晴らしい。サーリとヴレンチェンの二人が、新婚のベッドになぞらえた舟に乗って川へ漕ぎ出すが、やがて、それは静かに水の中に沈んでゆく。オーケストラによる深い余韻を残す終曲をもって、全曲の幕となる。

ところで、ディーリアス音楽の愛好者はディーリアンなどと呼ばれたりするらしいが、私ははっきり言って、ディーリアンではない。今回の記事もディーリアス・ファンだからではなく、オペラ愛好者として良い作品を語ってみたいという気持から書いたものである。この作曲家の管弦楽曲や声楽曲の主だったものは、LP時代から私もだいたい聴いてきたが、正直なところ、しばしば退屈して眠気を感じてしまう有様だった。演奏はトマス・ビーチャムの初期ステレオ盤(EMI)など、かねてから定評のあるものだったし、ジャック・カーディフが撮影したことで話題になった映像付きの《ディーリアス・アルバム》ではジョン・バルビローリの指揮による演奏(EMI)が使われていた。それでも眠くなってしまったというのはやはり、演奏の問題ではなく、音楽自体の問題だったのだろう。

ディーリアスの管弦楽にはちゃんと、色彩感がある。そこそこの盛り上がりを持った曲もある。しかし全体の印象としては、どこまでもなだらかな稜線を描くような、ゆるやかな音楽なのだ。それをまた、ビーチャムやバルビローリといった巨匠たちが心のこもった響きで暖かく奏でてくれちゃうものだから、よけいに“就眠効果”が高まる訳である(苦笑)。やはり、オペラが趣味の基本になっている私には、ディーリアス音楽はいささか付き合いにくいものと言わざるを得ないようだ。(※ただ、もう永いことディーリアスの管弦楽曲を聴いていないので、今改めて聴きなおせば、ひょっとしたら印象が変わるかも知れないが。)

(PS) ギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』について

シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』は多くの作曲家に創作の霊感を与えたが、その作品にもさらなるルーツがある。ギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』である。今回の締めくくりに、オリジナルとなる神話のエピソードをご紹介しておこうと思う。

{ ピュラモスとティスベの二人は家が隣同士で、幼い頃から仲良しだった。しかしその後、それぞれの家同士が険悪な仲になってしまい、仲良し二人は両家を仕切っている壁越しに話をすることぐらいしか出来なくなった。思春期を迎えた二人の会話はやがて、恋人同士のそれに変わった。ついに二人はそれぞれの家同士の対立に見切りをつけて、駆け落ちすることを決める。

落ち合う約束の場所は、白い実がなっている桑の木があるところ。二人には、お馴染みの場所であった。先にティスベがそこに来たが、折り悪くライオンと出くわしてしまう。ヴェールを脱ぎ捨てて、彼女は逃げた。ライオンはそのヴェールを噛みちぎって、去って行った。やがて到着したピュラモスは、見覚えのあるヴェールが食いちぎられているのを見て絶望する。そして、携えていた短剣で自らの胸を刺して自殺してしまう。

ライオンはもういなくなったかしらと、ティスベがそこへ戻ってくる。しかし、彼女の目に飛び込んできたのはピュラモスの遺体だった。ライオンに食い破られた自分のヴェールと彼の遺体から事の成り行きを悟った彼女は、好きな人の胸に刺さっている短剣を抜き、自らの胸に突き刺して果てる。

二人の遺体は、同じ墓に埋葬された。そして、彼らの血を浴びた白い桑の実は、それから赤い実をつけるようになった。 }

―このお話から、すべてが始まる。
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