カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

先を予想しながらヒヤヒヤする   ジャッジメント・ナイト

2012-11-20 | 映画
ジャッジメント・ナイト/スティーブン・ホプキンス監督

 観始めてすぐに思い出した映画が、ピーター・フォンダの出ていた「悪魔の追跡」だった。多少違う話だけど、基本的にその映画を観た方が楽しめるだろうし、不思議な気分になれるだろう。
 実を言うと感想はそれですべてにした方が気がきいていることも分かっているのだが、それではあまりにも不親切かもしれない。それに、この「ジャッジメント・ナイト」にしてもなかなか楽しめる事も確かで、「悪魔の追跡」には劣るまでも、秀作であることには変わりは無い。でもまあ、ついでに紹介している「悪魔の追跡」は、「ジャッジメント・ナイト」が少しでも気にいったなら、飯を抜いてでも観るべきだろう。追われることの恐ろしさを楽しむというマゾ的な趣味が目覚めるかもしれない。それでいったい何の得になるか、よく分からないだけのことである。
 さて、命がけで追われている訳なのだが、実は「誰が死ぬのか」というのは、あんがい見ていて予想が可能である。アメリカ映画というのはそういうことがある程度分かりやすく作られている。多少は同情を買うだけの(観客が悲しいと感じるだけの)善人であったり憎めない人間であることは確かだが、殺される人間は、何らかの罪を途中で犯してしまうからだ。だから死んで当然だということを言いたい訳ではないが、しかし、製作者側としては、ひょっとするとそういう心理のようなものを持っているのではあるまいか。単に善良なだけの人間が意味も無く殺されることに、何らかの後ろめたさを持っているのかもしれない。
 実際香港映画なんかを観ているとそういう傾向が皆無で、突然善良な人間や主人公らしき人間が殺されてしまって愕然としてしまう。日本では漫画の「タッチ」がそんなことになってしまうが、しかしあれはそれに意味があるから関係は無いか。
 ということで、この次に殺されそうな人間が出てくると、僕は非常に小心者になってしまう訳だ。まさか主人公らしい人は死なないだろうから安心して見ていられるが、少しでも仲間内で変な行動をする人間が出てしまうと、ああ、次はあいつがやられるに違いないと感じて、非常に同情してしまうのだ。あれくらいのことをしてしまうのを許してやれない製作者の狭量に怒りさえ覚えるのである。
 しかしまあ、そういう人間が殺されることで、実は結末は予想できる。それはどんな予想かはあえて言わないけれど、ある程度のカタルシスを必要とするような展開になるはずなのである。
 もちろんそういう展開が分かっていながら映画は楽しめる。むしろそうでなくては楽しめないだろう。水戸黄門だって真面目にみると、やはり面白いからこそ長寿をまっとうしたのだ。そういう意味では娯楽の王道映画で、ストレートに楽しむより無い。あんがい拾いものという感じの作りも、なかなか好ましいものなのである。
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