カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

拭いがたい生きることの罪悪感   父と暮らせば

2012-11-21 | 映画

父と暮らせば/黒木和雄監督

 基本的に二人劇のようだ。回想シーンでもう一人でるが、かえって夢の中のようで現実感が薄い。むしろ親子の交わす会話の中から、観る人は様々な場面を想像することになる。戦争と、原爆というものの悲惨さということを、映像で無く再現しようとすると、このような手法が却って現実感を醸し出すということなんだろう。実際それは成功しているようにも見えて、心を打たれるということになる。
 このような原爆の話については、日本人はある程度素直に理解できるところはあると思う。気になるのは、やはりこれはアメリカ人に理解できる話なのかということもある。理解できない話では無いはずだが、しかし彼らにはその前提が必要だったし、この犠牲が多くの命を救ったはずだと理解しているはずなのだ。しかしこれは必要な犠牲の話なのではないから、ある意味で前提は揺らぐ可能性がある。悲劇として受け入れながら、史実として受け入れるものなのかどうか。
 しかしながら、この映画は海外の人が観るとして、やはりこの広島弁のような地の人間の言葉で語られるような下地は何とも伝わりにくいのではないか。それはある程度仕方のないことだが、そういう意味では、やはり日本の他の地の人に伝えるべき物語でもあるかもしれない。僕は長崎県の出身だから、このような話は、いわば当たり前の常識の上に観るということになるのだが、他県の人と話していてときどき思うことは、このような下地さえ無いというか、既に風化しているようにも見える原爆の記憶のようなものを感じることがある。教育の問題ということもあるだろうが、既にある程度時間をおいた過去の話という程度にしか理解しえないものになってはいないだろうか。
 生き残っているものが持つ命の罪悪感というものは、自分は持っていないものだが、しかし理解できるものだ。その様な考えを持ってしまう悲劇の大きさを思うこともできるし、また悲しい屈折に憤りも覚える。まるでこの幻想の父のように。しかし、生き残っているものに、死んだものが本当に恨みや妬みを持っていないのかというと、やはりそれは違うかもしれないと思う。筋違いだと思うものの、その様な怨念はあって、生きるものは苦しめられることがあるかもしれない。死というものはそういうことを含んでいて、例えば原爆を落としたB-29のパイロットが発狂したという話(嘘らしいが)を聞くと、慰められる精神というのは事実あるだろう。直接原爆の悲劇を知らない者でもそうなのである。しかし直接の被害者は、さらに被害にあった近しい者のことを考えて、さらに罪悪感を深めてしまう。そのことを、やはり原爆を落とした人間こそ知るべきであろうと思う。もちろん落としたパイロットに言っているのではない。それは日本の大衆も広義では含んではいる訳だが。
 核戦争の危機というのは薄れているという感覚は誰もがあるかもしれないが、しかし可能性が無くなったのかというと、そうとは言えない。むしろそのリスクは拡散しており、具体的によく分からなくなったということの方が事実であろう。戦争という具体性が少なくなっているのかというと、あんがいそんなことも無いようである。回避する前提の努力がはらわれていることと、そしてやはり妙なバランスの上にかろうじて危機を回避できているということなのだろう。
 基本的に映画を観たから回避できるという問題では無いのかもしれないが、少なくともこのような悲劇が控えていることくらい常識として知るべきものだというのは、間違いがないようである。
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