恋愛感情を抱くことが無く、性的な欲求も無いという人がいるらしい。しかしだからと言って孤独でいたいわけでもない。そういうことをわかってもらいたい欲求はあるし、そういう者同士で、家族(仮)のような関係を築けないか、という実験のようなドラマである。
主人公の咲子はいわゆる異性愛というものが理解できないし興味もない。しかし異性からは好かれるしセックスもしたことがある。それは相手の欲求に合わせていたというだけのことで、何か違うという違和感でしかない。適齢期の女性でもあることで、家族の期待もプレッシャーになっている。しかし、そういうモヤモヤを理解してくれる人は皆無のような絶望感の中で、仕事をしたり生活したりしている。ところがある仕事先でのこと、これを理解している仲間がいることを発見する。嬉しくなって近づき、相手の男性(高橋)の住む古民家に転がり込んで共同生活をすることになる。高橋の方も独り身であるばかりか、そのような性的な志向性がある人物で、女性との共同生活をすることで、周りの人間に説明するわずらわしさから逃れられると考えたようだ。しかしながらこのことにより、咲子の家族はかえって喜びのあまり勘違いを深め、二人の関係に期待を寄せるようになるのだったが……。
設定の面白さもあるし、実際の啓蒙もあると考えられる話である。そのような人々の苦しみというのが分かるし、しかし理解できない周りの人間とのギャップをいかに埋めていけるのか、という実験でもある。そういう無理解の中にある絶望的なトラブルの数々に、それぞれの立場の人々は深く傷つけられることになるが、理解できないながらも相手を認めるよりないことも学習していく。何しろこの二人は、異性としての性の交わりの無い共同体であり、家族(仮)の体現者なのだ。
という訳でなかなか面白い展開だったのだが、そうであるからこそ何かの期待のようなものが付きまとって、ちょっとモヤモヤはすることになる。それだけ僕自身にも理解できない壁のようなものが、歴然とあるためであろう。特に男の高橋という人物が、人間的にできすぎているし女性に対して都合の良すぎるというのが引っかかった。最後まで咲子のためだにいるような神のような存在である。自分の生きる道のようなものを掴んでいくことにはなるが、その世界でも引き続き苦労するはずであることのモヤモヤが、どうしても残ってしまった。また咲子にしてみても、元カレとの新たな付き合いがあるにせよ、彼は性愛欲求のある男のままなので、新たな生活があるだろうことも予見される。そういう友人関係があってもいいと思うが、相手の女性がそれを許すかは分からない問題ではないか。近しい間柄になれば、根気よく詳しく説明していくことである程度の理解を得られるとは思うものの、その繰り返しの人生を続けて行くことは、やはりかなりしんどいことなのではなかろうか。
自分の感覚的なことの共有理解というものは、そもそもが難しい問題なのだと思う。だから文学作品のようなものが残っているわけで、読んだところで簡単に人に説明するのは困難だ。また読んだとしても理解できるとも言い切れない。ましてやリアルな人間関係や、親子のような肉親の間柄であればこそ、そのハードルの高さは困難を極めるだろう。ドラマ的には上手く考え方を整理しているように見えるが、要するにそういうものとは戦わない覚悟のようなものが必要そうに見える。(仮)のままであっても、保留のままであっても、そのままで行くしかないのかもしれない。
しかしどうしても引っかかるのは、人間は性愛の問題はやはりあるように思うし(ここではまったくない設定だが、それだけの人だけではない場合だってありそうである)、恋愛できない人間がそこで苦労する物語だと、単にモテない話でおわりそうになってしまうのだろうか。でも彼らはものすごくモテるのだろうという設定であり、それで周りが傷ついてしまうことになる。相手の気持ちに絶対にこたえられない存在というのは、このような人以外にもふつうにいるわけで、そういうことが混ざることによって、さらに人間関係というものが複雑化するようにも思う。
まあそれこそが、既にふつうにある人間関係のありよう、という気もしないではないのだが……。