ドラマの「おいハンサム!」を観ていたら、いわゆる地元の町中華の名店が閉店に至ることを嘆いている場面があった。閉店となると客が急に押し寄せて並んでいる。それまで十分に行きもしなかったくせに、いまさら遅いのではないかと文句を言っていた。
そういう話はよく聞くし、よく分かる感覚ではある。どこにでもありそうでいて、実はこの店でしか出せない味であり、雰囲気を持っている。以前から通ってはいたが、おやじもおばちゃんも年である。後継者を育てようにも、客足が伸びているわけではないし、もっと立地のいいところに、チェーン店が立ち並ぶようになってしまった。若い客や、おそらくこれまで通っていた人たちも、いつの間にか足が遠のいてしまって、やむなく店じまいを決意したものである。そうして独特の町中華の名店が、また一つ消えていくのである。
もちろん図式としてはそうなのである。基本的には間違っていない。僕の住んでいる田舎であっても、そうやって多くの店が消えていき、また残された店も消えつつある。そうしてどこにでもあるチェーン店は、それなりに繁盛しているように見える。たとえ繁盛していなくても、また別の似たようなチェーン店が、やってくるのである。
問題は、そうした独自の文化を持っていた店が消えることで、また我々の食文化の彩が、どんどん失われていくような寂しさである。世の中はほとんど画一化された風景になりつつある。こういう店が残らないのは、こういう店がいいという美意識というか、こういうものがおいしいと知っている舌を持った人が少なくなっているからではないか。自分たち以外の人々は、そういう人ばかりになってしまって、本当に素晴らしいものを迫害し、消え去る運命にさせているのではないか。
おそらくそう言いたい人が、一定以上居るような気がするのである。
僕の十代の終わりごろに、やたらとグルメを気取る中年男性が、店で食事をしながら、この味は分かってない、などとこれ見よがしに他の客が聞こえるように語りだしたことがあった。その多くの原因になったのは、グルメ漫画の「美味しんぼ」だとは思われるのだが、この漫画は確かに面白いところは無いことも無いのだが、どうにも究極の味などといううさん臭い目標を持った人たちが繰り広げるグルメ・ウンチクをちりばめた食バトルものだったのだが、今になって思うのだが、内容もかなり怪しかった。いや、かなりの部分偏見的だった。つまるところそんな味なんてものは幻想なのだから漫画に描けるわけで、現実の味が苦労したから誰もが得られるものなんかではありえない。いい食材といい料理人がいればおいしいものは確かにできるが、それにはそれなりの対価が必要なだけのことであり、貴族趣味的に追求できる人なんてものは限られている。誰もが求められる美味というのはあるにはあるが、あくまで大衆的に値段のバランスがいいものであるということである。そういうものが、いわゆる並ばないで手に入る可能性の方が少ない訳で、誰もが行けて誰もが食べられる現場というのは、田舎にしか存在しえないだろう。しかしそこには顧客が限られており、時代の流れとともに、その時代性とともに、まるで生涯を終えるように消えていかざるを得ないのである。店というものはいわゆる生き物と同じなのであって、その店を構成している人々とともに、寿命をまっとうしているのかもしれないのである。
ということで感傷的になる気持ちは分かるのだが、それはおそらく周りの人間の責任なのではない。ましてや自分だけが分かっていられる問題ではないので、勘違いなのだ。惜しいのであれば、買い取って自分でやればいいのである。
しかしまあ、地元の名店というのは、やはり育ち育てる素養がその場所になければ生まれるものではないかもしれない。今は名店といえない店であっても、さまざまな変遷をへて、名店に生まれ変わるかもしれないではないか。その時代に同時に生きていけるのかどうか。それが自分の運命のようなものなのである。