カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

国際化とは単純無知化かもしれない

2022-02-14 | net & 社会

 韓国の犬食文化がピンチを迎えているという記事を読んだ。ものすごく極端に言ってしまうと、現代社会にあって残酷という印象を拭えず、文化食としての生き残りを模索しているまま、最終岐路に立たされているということか。そもそも外国人観光客の受け入れが多くなり、サッカーのワールドカップを経て、国際社会での立ち位置のようなものを気にして、一般の人の出入りする市場では販売自粛し、表の通りでは店舗も構えることができなくなったのだという。そうしてこれまで来ていた客も入りにくくなり、取扱業者の扱う量は細くなり、食用犬を育てる畜産農家も厳しくなっているそうだ。食文化なので、本当に細々と犬食を求める人もいないではない、ということで、そのためだけに営業を続けているということなのだろう。
 これまでは海外の活動家や、著名人などの犬食嫌悪の圧力におされて、いわば驚きながら後退を余儀なくされていた背景があるが、一度後退してしまうと自国の人々も、普段はペットとして犬を飼う生活を送っている訳で、自国の犬食文化そのものを嫌悪する韓国人世論まで形成されてきているのだという。若い世代など犬食文化があることすら無意識のものが増えていて、そういうものが残っていること自体に違和感を覚えるような感覚が芽生えているのかもしれない。味の良さだけでなく、滋養強壮に良く、冬は体を暖かくし、夏場にはバテ防止になると言われていた犬食は、何かゲテモノを扱うような白い目で見られるような存在になってしまったのかもしれない。
 こういうのを読んでいると、なんだか鯨も一緒のような既視感を覚える。僕は犬も飼っていたけど、ペットと家畜の差が何であるかというのは、モヤモヤとしか分からない。どちらも人間のエゴであることには変わりなさそうだが。人間は勝手に犬をなつかせ、繋いだり軟禁して懲役刑を与えるか、集団で飼って死刑にしているかの違いだろう。
 だが鯨は違う。彼らは野生を謳歌し、鯨としての人生の中で他の生物と同じように狩ったり狩られたりしているわけだ。牛や豚なら食べていいという理屈なら、将来人間の所有物として家畜化したら食べていいということになるはずだ。大きいからどうせ無理だろうと思って言っているだけのことで、やはりエゴの延長に過ぎないだろう。
 ということで、分からない人には分からないまま、文化というものは変遷する。その時代のはざまに、たまたま僕らは生きているのかもしれない。
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