911前後には当然特集が数多く組まれて、再びあの航空機がビルに突っ込む映像をたくさん見ることになった。改めて痛ましさを感じるとともに、あの火災の中200人以上の人がビルから降ってくる映像も見返して、身を投げなければならない状況に自分がおかれた時のことを想像しておののいた。
もちろん10年という歳月があり、様々な検証が行われている。テロとの戦争についての熱烈な支持というものから、いくらかではあるが、冷静になって考えている人もいることが分かった。
その反面、やはり強硬にイスラムへの嫌悪を隠さず、益々先鋭化して活動している人々がいるらしいことも知った。アメリカの被害者意識と、さらに文化的経済的優位性から、はるか高みから見下しイスラム社会を罵倒し、その論を正当化する姿は、単に醜くおぞましい。自分が正しいことは明白だから相手は確実に間違っている。なんと古臭い主張だろう。そしてそれはイスラム原理主義者と同根ですらある。しかしそれには無頓着に気付きもしない。もちろん双方よく似ていて、グラウンドゼロから数百メートルの場所にモスクをたてる計画をしているイスラム教の団体の人も、計画をやめることは自分の正しさを曲げることになり出来ないと言っている。自分の正しさの正当性のために、憎悪と嫌悪が上塗りされていく。
それは我々第三者にとっては実に明白に思われるが、当事者には理性的に理解されない。深い悲しみから来る共感が、単なる憎悪となって攻撃する原動力になる。911のことを雑誌タイム誌は「屈辱の日」と呼んだ。それは真珠湾攻撃以来のタイトルだという。自分の正しさにだけしか目がいかない思想には、相手の考えを拒否し理解しない憎悪の連鎖の根源である。では何故屈辱を受けなければならなくなったのかは、考えなくて済む問題なのだろうか。結果的に屈辱の日は再び訪れた。日本人に言われるのはさらに屈辱だろうが、事実を曲げることは出来ないのである。
イスラム原理主義はおそらく、アメリカを含む正当性の文化が生んだ鑑である。それは単なる妬みだったかもしれないし、勘違いなのかもしれない。しかし、その結果に生まれた猛烈な憎悪を原動力にしているように見える。そして、その憎悪の共有を恐らく目的としている。目には目を。自分たちと同じ苦しみを彼らに、である。それは相手に対して寄りかかった甘えた理想ではある。相手が悪く自分が弱いから攻撃するより方法を見つけられない。確かにアメリカが標的になるのは、あまりに傲慢に一方的に強すぎるからである。共感を見つけられるとしたら、同じような憎悪くらいのものだろう。つまりアメリカが正当性を主張しづける限り、戦いは終わることは無い。結論は分かりきっているが、だからテロを再生産することしか、アメリカは熱心になれないのである。もちろん、そのことに気づいてさえいないだけの話なのだが。
テロリストを許せないことと自分の正しさを主張することは必ずしも同じことではない。むしろ自分が絶対的に正しいからこそ、お互いの正しさに耳を傾けるべきなのだ。自分の正しさに自信が無いから、テロリストもアメリカも、相手と共存して憎悪を連鎖再生産してしまうのである。
聞く耳を持たないのは野生の持つ脅えのようなものに似ている。それは人間の持つ罪であるとともに、進化の前にとどまる、単なる無知なのではないだろうか。