カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ペイパー・ムーン

2011-09-13 | 映画
ペイパー・ムーン/ピーター・ボグダノビッチ監督

 随分久しぶりに観た。幸いほとんど忘れていて、十分楽しめたのだけど。
 食事や買い物をしていて五千円や一万円札で支払いをすると、レジ係が大声で確認したりする。間違わない為であるのは理解できるが、いささかルールが大袈裟なようにも感じるものだ。しかしながらこの映画を見た後でなら、その行動に何の奇矯さも感じ無くなるだろう。世の中にはいろんな邪悪さがあるものである。たとえそれが生きていく知恵であったとしても。人間という生きものの本質と悲しさが、このようなところに見てとれるところが、この映画のもう一つの面白さのような気がする。そうして特にまだ幼そうに見える女の子を描く時、このような狡猾さにたけることが、さらに寂しさをにじませる効果を発揮させていく。この映画が名画として残っているのも、この親子の、特にテイタム・オニールの存在感の大きさが、あまりに衝撃的に過ぎるからであろう。現在の目から見ても、奇跡的な子役である。
 しかしながらこの映画は、地に足がついていないからこそつながりができたところにポイントもある。もともと邪悪な考えで拾った子供だったものが、しかし子供の側からするとすがる糸のようなものだった。そして期待や希望だった。彼女の失ったものは大きく、それを埋めるものは、目の前にいる、ひょっとすると本当の父親かもしれない軽率な男なのである。もっと頼りがいのある健全な男だったらどうだっただろう。恐らく彼女には、そんな大人の男には興味がわかなかったのではあるまいか。親子(かもしれない関係)の愛情の映画のようでありながら、実は恋愛映画であるというのが、この映画の最大の魅力なのではなかろうか。だからこそ切なく、そして自然に感情移入ができるのではなかろうか。そんな関係がいつまでも持つ訳も無かろうが、たとえ一時だからといっても、強烈に輝くものがある。そういう男女間の惹かれあう物語の断片を(もしくは片思いを)見事に描ききったからこそ、この映画が観るものを捉えて離さない名作になったのだと思った。
コメント
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