カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

トイ・ストーリー3

2011-02-05 | 映画
トイ・ストーリー3/リー・アンクリッチ監督

 評判通りの大傑作。ピクサーってホント凄いな、という駄目押しのような見事なストーリーである。
 オープニングの画像の美しさも素晴らしい。CGアニメというのは漫画チックでも素晴らしいという当たり前なことに感動してしまった。
 かつて男の子であったことと、現在父親である両面で、本当に号泣といっていい感動作に仕上がっていた。
 そして改めて母親にずいぶん騙されていたんだということにも気付かされたわけで、それは仕方がなかったにせよ、本当につらい思いと罪悪感も蘇った。それだけ感情を揺さぶられたわけで、結局は人間って残酷なんだと勉強できる映画でもあったと思った。

 ラジオで町山さんがこのシリーズの父親不在について、おもちゃたちが父親であるという旨の発言があったように記憶するのだが、観ているときはおもちゃの視点が主なのでそんなに気にならなかったにせよ、はて、確かにお父さんが居なかったんだな、とは後で気になった。そしておもちゃの父性については、正直言ってよく分からなかった。
 後で確認することにはなると思うのだが、一作目は途中で寝てしまって覚えていないし、二作目は観てないから正確ではないと思うが、確かにこのシリーズに父親の姿は見えないようだ。そのこと自体に大きな意味があるのかは分からないが、米国においてさえ、子供の世界と外的世界の中心は、やはり母親との問題が大きいということも言えるような気がしないではない。
 アンディは男の子だから、当然おもちゃは男の子っぽいキャラクターなのだが、はて、自分のことを鑑みてみると、僕が日本人ということもあるんだろうけど、コマだとか凧だとか、友達と遊ぶようなものが極端に少ないような気がしないではない。いや、個人でも遊べるのではあるけど、キャラクターものを中心にアンディが大切にしているという設定に、なんとなくアンディ自身の、そして彼のおかれている心の問題が隠されているような気がしないではない。
 このようなキャラクターもので遊んだり、そのようなおもちゃを大切にするというような心情を持っていたのはいつ頃までだったろうか。国際的な事情があるにせよ、個人的には少なくとも小学校低学年までだったような気がするのだ。漫画の絵の入った靴を買ってもらったにもかかわらず、履くのが恥ずかしくて新品のまま履くことがなかったという経験があって、それは確か小学一年生だったようにも記憶する。今までは喜んで履いていたのだろう、親の困惑に申し訳ない気持ちもなくはなかったが、それよりも腹が立った覚えさえある。
 確かに大学生になるアンディは、すでにおもちゃとは見向きもしなくなっている年頃であるとはいえ、ちゃんと部屋のおもちゃ箱にこれらのおもちゃをとっておいているという設定である。そういうものか、で済んでしまえることかもしれないが、考えてみるとかなり異常な気がしないではない。いや、異常とまでも言えないまでも、例えばそれがプラモデルや一種にコレクション的なキャラクターものならばまだしも納得がいくが、幼いころに遊んだおもちゃであるという一点のみで考えると、そこまで執着して持っていられたという設定は、圧倒的に少数派なのではなかろうか。
 シリーズを通しておそらく完結編であろう本作が、アンディの成長物語であることは間違いなかろう。アンディはいわゆる普通の高校生だったのだろうとは思うのだが、しかし実態は本当に平均的な高校生では無い気もする。もちろん性格が第一だろうが、普通より大人しく内気な少年がおもちゃに抱く空想世界が、おもちゃたちの存在を支えているわけである。そしてそこには父親はいない。
 確かにこの映画が象徴している激変する社会において、今の日本人ほどその心情がタイムリーにシンクロする存在も少ないのではなかろうか(将来的には多くの国々が順に経験するだろうにせよ)。僕らはアンディ的に脱皮する環境にあって、アンディを忘れることができない。
 しかし米国は新天地を選べるし事実そうしてきた。そういう意味でも示唆的な内容だし、ひょっとすると母親からゴミとして捨てられたとしても、抵抗できないまま燃やされる運命が日本だったりするのかもしれない、などと自虐的に思ってもみるのだった。
コメント
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