PTAの九州大会において講演をされた金田一秀穂さんの話は楽しみにしていたのだけど、何せ会場が広すぎたのか音声の状態が悪くて肝心なところが聞きとれず、ついには内容もなんとなくしかわからなくなってしまって、一緒に帰る予定にしていたSさんがコメカミのマッサージなどをやりだして本当に疲れた様子だったので、やむなく中座して帰ることにした。ところが会場を出る後方にはさらにスピーカーがあって、そこのあたりではそれなりに聞きとることができたので、単に僕らが座っていたあたりがちょうど聞き取りにくかったものらしい。しかし立ち上がってしまったものはバツが悪いのでそのまま帰る意志は曲げなかったのだった。残念。
ところでそのお話の途中で、果物で森のバターといわれるアボカドは、アボガドという人もあるがどちらが正しいのか?という質問があったようだ。おそらくそう聞いただろうとしか分からなかったけれど、答えは当然アボカドであったはずだ。何故ならアボカドのつづりはavocadoなのだから。かっこよくは発音できないが、少なくともガとは考えにくい。もちろんこれはウィキで確認したのだけど、さらに皮の表面からワニナシともいわれることも分かった。鰐の肌がそういう感じとは思えないが、まあ、そういわれてもかまわないとは思える。さらにその現地でのアボカドという意味なのだが、形からいって睾丸に由来するとのことらしい。流石にそれでは現地での発音には人によって苦労しそうだが、日本人が発音する分には可愛らしいものかもしれない。
さてしかし僕とアボカドとのお付き合いはそれなりに長くて、といっても大人になってからだとは思うのだけど、実はけっこう僕はアボカドの実が好きである。つれあいも好きなので時々は家の料理で出る。サラダはもちろんだが醤油につけて、いわゆる刺身でも食う。ただ刺身だと実が滑って食べにくいのは難点だ。一人暮らしの時は包丁で半分に切って、真ん中にある種をはずしてスプーンですくって食っていた。絶品の珍味だとはいえないまでも、なんとなくくせになる味である。そのなんだかはっきりしないいわば優柔不断な感じもなかなか好ましくて、少しでも安くなると買って欲しい(食料品に主導権はないので、心の中でちょっとだけ願うだけだ)と思うようになる。
ところでこのアボカドの食べごろというのが大変に見極めが難しい。微妙に種類が違うらしく、単純に色が変わったから食べごろと判断してはならないようだ。触った感じでちょっとだけ柔らかくなった程度が食べごろであるらしい。しかしそう思って割ってみると、まだ早いという時もあるし、逆にちょっとアブなく過ぎているという時がある。売ってあるものはすべてメキシコからの輸入物だろうから、その搬送の状態によって違うのかもしれないと想像する。そういう気むずかしい面も、なんとなく憎めないアボカド君である。
しかしながらこの名前の不徹底さはなかなか面白いとはいえる。地元のスーパーでも、表記はバラバラである。近年になってある程度アボカド派が増えてきているとは感じるが、あるスーパーでは決まってアボガドだし、正確な表記だと安心していた店でも、パートのおばちゃんが変わるなどしてしまったのだかどうか知らないが、突然アボカドからアボガドへ戻ってしまったりしてしまう。僕としてはアボガドと書いてあるだけでなんとなくイライラしてしまう方がだが、だからといって絶対にアボガド表記だから不買運動をするという強硬な気分になるところまではいかない。日本人の両方共存というは国の名前だってニホンだかニッポンだか(はたまたジッポン説もあるのだが。気になる人は調べましょう。それは腐るほど見つかるはずだ)ではっきりしていないこともあるんだし、まあ、いいかと思ったりするだけである。
でもまあ買う気が無くてもアボカドが売ってあるとつい寄って行ってどちらの表記か確かめたくはなってしまう。文字は下手糞でもアボカドと書いてあるだけで気分はすっきりして、いい店だなあ、と感心してしまうのであった。
ところでそのお話の途中で、果物で森のバターといわれるアボカドは、アボガドという人もあるがどちらが正しいのか?という質問があったようだ。おそらくそう聞いただろうとしか分からなかったけれど、答えは当然アボカドであったはずだ。何故ならアボカドのつづりはavocadoなのだから。かっこよくは発音できないが、少なくともガとは考えにくい。もちろんこれはウィキで確認したのだけど、さらに皮の表面からワニナシともいわれることも分かった。鰐の肌がそういう感じとは思えないが、まあ、そういわれてもかまわないとは思える。さらにその現地でのアボカドという意味なのだが、形からいって睾丸に由来するとのことらしい。流石にそれでは現地での発音には人によって苦労しそうだが、日本人が発音する分には可愛らしいものかもしれない。
さてしかし僕とアボカドとのお付き合いはそれなりに長くて、といっても大人になってからだとは思うのだけど、実はけっこう僕はアボカドの実が好きである。つれあいも好きなので時々は家の料理で出る。サラダはもちろんだが醤油につけて、いわゆる刺身でも食う。ただ刺身だと実が滑って食べにくいのは難点だ。一人暮らしの時は包丁で半分に切って、真ん中にある種をはずしてスプーンですくって食っていた。絶品の珍味だとはいえないまでも、なんとなくくせになる味である。そのなんだかはっきりしないいわば優柔不断な感じもなかなか好ましくて、少しでも安くなると買って欲しい(食料品に主導権はないので、心の中でちょっとだけ願うだけだ)と思うようになる。
ところでこのアボカドの食べごろというのが大変に見極めが難しい。微妙に種類が違うらしく、単純に色が変わったから食べごろと判断してはならないようだ。触った感じでちょっとだけ柔らかくなった程度が食べごろであるらしい。しかしそう思って割ってみると、まだ早いという時もあるし、逆にちょっとアブなく過ぎているという時がある。売ってあるものはすべてメキシコからの輸入物だろうから、その搬送の状態によって違うのかもしれないと想像する。そういう気むずかしい面も、なんとなく憎めないアボカド君である。
しかしながらこの名前の不徹底さはなかなか面白いとはいえる。地元のスーパーでも、表記はバラバラである。近年になってある程度アボカド派が増えてきているとは感じるが、あるスーパーでは決まってアボガドだし、正確な表記だと安心していた店でも、パートのおばちゃんが変わるなどしてしまったのだかどうか知らないが、突然アボカドからアボガドへ戻ってしまったりしてしまう。僕としてはアボガドと書いてあるだけでなんとなくイライラしてしまう方がだが、だからといって絶対にアボガド表記だから不買運動をするという強硬な気分になるところまではいかない。日本人の両方共存というは国の名前だってニホンだかニッポンだか(はたまたジッポン説もあるのだが。気になる人は調べましょう。それは腐るほど見つかるはずだ)ではっきりしていないこともあるんだし、まあ、いいかと思ったりするだけである。
でもまあ買う気が無くてもアボカドが売ってあるとつい寄って行ってどちらの表記か確かめたくはなってしまう。文字は下手糞でもアボカドと書いてあるだけで気分はすっきりして、いい店だなあ、と感心してしまうのであった。