カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

明日から出張である(飛行機飛ぶか)

2009-10-07 | 音楽
 なんとなく気恥ずかしいのだけれど、チープトリックなのである。いつの間にか居なくなり、そして復帰する。ほとんどの曲は好みではないのだけれど、一部の曲は妙に心をとらえて離さない。

I Can't Take It - Cheap Trick


 遊び心もあって、楽しくなる。

Cheap Trick - Invaders of the Heart


 そしてなんだか切ないのであった。

If You Want My Love - Cheap Trick


 しばしサヨウナラ。

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月にウサギ

2009-10-07 | 雑記
 こんなことをふと急に思いだしても仕方がないのだが、日曜日の夕方に「ちびまる子」を見るともなしに見ていると、本当かウソかをめぐって「命を賭ける」と言い争っていた。事は月にウサギがいるかいないかということであるらしいのだが、実際に文学的な要素を排除するという意味において月にウサギがいるわけがないのだが、確かヤマダとかいう少し足りないという設定(なのだろうか?)の男の子が月にはウサギがいると純粋に思っていて、それを馬鹿にする子に対してまる子が(そのヤマダの純粋さを理解することのできる子供という立場上)かばってそのような喧嘩を買っているのであった。命まで賭けるというのは穏やかでないようだが、月にウサギがいるかいないか、実際に行って見ないと分からないということを根拠にしているということである。なるほど実証主義という観点からすると一見科学的であるようにも思われるわけだが、日本の昭和三十年代の小学生が月にいけるわけがないという非現実的なことを根拠にしているので、そのことを根拠に選ぶという大人のいやらしさが垣間見えるということになっていると思ったのだった。しかしながら実際に月に行かないまでも、宇宙空間には酸素が無く、哺乳動物であるウサギという存在が住めないということが実は科学的類推であるとすると、これはやはりそういう知識的なものがまだ備わっていないという前提を必要とする。実証以外認めないという態度を貫き通さない限り、極めて危険な賭けであるということはあったようだ。
 しかしながらそのようなことを急に思い出したのは、大人というのはこのような議論を持ち出して、いわば極めて実証的に根拠を示さなければ認めないというような事を日夜言っているような気がして気が重たくなったのだった。実証しようがないことは科学ではないので信用しようがないというロジックは極めて説得力があるように見えはするが、思考停止になりやすいという欠点がある。たとえ実証できないものであっても、極めて論理的に考えを進めていけば、ある程度は理解可能でありそうなことであっても、そこで思考を停止してしまうのでいつまでも噛み合わない。そして最後には例えば命まで賭けるような情緒でダメを押してしまう。つまり、それは今の日本の政治(あるいは西洋も)の様だなあと思ったにすぎないのであった。
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今日は歯の治療なのに飲み過ぎた件

2009-10-07 | 雑記
 教育のことを語ることは容易だ。何故かというと、明確な答えなどないから。子供は勝手にも育つし、そのことで必ず失敗するということは言えない。望ましいというのは主語が必要で、誰もが望ましいなどというのは幻想だ。教育現場には幻想があって、しかしその幻想は宗教のように根強くはびこっている。
 もちろんそうであっても、やはりある程度の望ましき姿があるとは同意する。勝手に育つものを勝手にさせたくない。それが教育であり躾かもしれない。これは大人の都合であり、エゴである。そのことを理解した上で話を進めなければ、進むべき話が進まない。たとえそれが望ましく素晴らしい方法であっても、子供を教育することは本質的に洗脳であるからだ。人間は本能が壊れているといったのは岸田秀だが、本能のない生物を社会的な仕組みの中で育てるには、やはり洗脳以外に道はないのかもしれない。付随しているイメージで顔をしかめて思考停止か拒絶をするような人が、実は進んで洗脳に励んでいたりする。もちろん皮肉でいっているのだが、無知に教えてやらなくてもいい事実なのかもしれない。北朝鮮が洗脳で、アメリカは違うとは結果の問題だ。やっていることは違う内容と違う方法の洗脳なのである。

 さてしかし組織論の愚痴にはなった。問題点をさらうことは得意でも、改善の実行は険しい。それは分かっているがそこに留まってもいる。それは個人的には卑怯だとは思う。何故なら今や自分が当事者だから。いや子供がいなくても実は当事者なのだが、そのことは社会的に理解されていない。
 社会を変えるのはものすごい力が必要で、その力が最初から抜けている。しかしもう少し根本的に考えると、社会を変えるより個人を変えることの方が先決だ。個人が変わると社会が違って見える。それは事実上社会が変わったことになる。なんだか詐欺みたいな話に聞こえそうだが、社会が変わるというのは実はそういうことである。僕は洗脳に努める。子供に対してでなく大人に対して。もう変わらないと思っているのはよく分かるが、人間というのは年をとれば今とは違った人間になる。本人は連続していると信じているが、赤ん坊の頃の自分と今の自分が同じだという認識は誤りである。それなら今の自分と未来の自分だって違うはずではないか。つまり人間は勝手に変わる。そうして社会が変わることだって不可能ではないということになるのである。
 まずは自分を変える。スタートはそこからだ。
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