カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ナイーブさが次への道をつくる(かも)

2009-10-02 | 時事
樹上から二足歩行へ

 この間、ある雑誌を読んでいると、人間が二足歩行ができるようになったから手が使えるようになり、自由になった手で道具を操るようになった、という解釈は誤りだ、と書いてあった。
 まさにその通りで、一般的な解釈というか、そのような話をする人はけっこう多くて、いつも僕は疑問に思っていた。サルだってモノをつかめるじゃないか。さらに手を使えないカラスだって嘴で道具は使うことは知られている。人間の手を過大に評価し過ぎではないのか。
 人間などの霊長類は四手類ともいわれていたことがあり、もともと手が四つあるという種類なのだ。哺乳類に四足が多いからといって、四本の機能が足に限定されるわけではない。二足歩行が重要だったということは、おそらくそれはそうであるにせよ、四本の足の中から二本が手になったわけではなく、四本の手の中から二本の足の機能が生まれたことが重要なのだ。
 進化の偶然であるにせよ、移動に優れていた四本足の動物より、むしろ移動が苦手な四本の手の動物が、さらに樹上生活からも追い出された(これは想像だが)ことによって二本の手を足に変えざるを得なかったことで、結果的に脳を飛躍的に大きくすることができたのではないか、というのが進化のカギなのではなかろうか。運動能力を犠牲にせざるを得なかったというか、そういう能力に劣っていたからこそ、他の道をたどるより道が無かったのではあるまいか。
 僕は、人間が弱かったからこそ、道具を使わざるを得なかったのではないかと考えている。弱いからこそ、その他の道を見つけるよりない、というのは、なんだか示唆的な話ではないかと思うのだが、そのためになんだが僕は勇気づけられたりもするわけだ。弱いというのは、考えようによってはいい状態なんじゃないか、という話なのでありました。
コメント
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