カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

希望、あるいは災い。まさにそうかも   エルピスー希望、あるいは災いー

2023-05-07 | ドラマ

エルピスー希望、あるいは災いー/大根仁ほか4人演出

 テロップにも少し出ているが、題材になっている元ネタは「足利事件」を下地にしているものと思われる。また、冤罪を扱う弁護士の木村は、おそらく今村核弁護士がモデルではないか(後でなんとなく違っていたが)。政治的な背景は、自民党の副総裁などをモデルに用いている様子がある。今の社会のしがらみの背景を使って、テレビ局で働く人間の苦悩を描いている、という図式になっているものと思われる。
 ある程度の評判は聞いていたが、これほどとは。観終わった実感は、本当に充実していた。こんなに面白いドラマは、生涯でもベストかもしれない。おおげさだが、ほんとに見ている時間そのものが面白かった。
 疑問に思わない点も無い訳ではない。創作ものであるから、都合というものはある。しかし、練られた構想と伏線。人間模様の在り方や、人物などの掘り下げも、実に見事である。何度も書くが、それがじわじわ面白さとして伝わってくる。僕は長澤まさみに叱られているような気がしてきて、何故だが日頃を反省した。つらいことがあっても頑張っていこう。
 物語は冤罪事件をめぐって、日本社会にあるどうしようもないしがらみや圧力と戦いながら、なんとか自分自身に忠実になろうとし、そのうえでかかわりのある人たちや、その中で苦しんでいる人たちを、ちゃんと見つめていこうとするお話である。それをグダグダした空気の読めない男と、ちゃんとした正義感の中、自分も傷つきながら強くなっていく女性を中心に描いていく。
 毎回、あっと驚くような出来事があり、しかしどん底に落とされるような絶望感もある。確かに日本の縮図だし、しかし酷い職場環境だ。それがしかし華やかなテレビ局周辺なのである。日本の司法がクソだというのは分かり切った現実だが、これが僕らの生活を守っていることも確かだ。多くの人の平和は、限られたほんの少しの人たちの、救われない激しい苦痛の上に成り立っている。そういうものは救える道があるはずだが、それをいまさら救うことは、多くの犠牲をさらに増やすことになる。しかし、本当にそれでいいのか? 救われない人は、人生を奪われ、死ぬより安楽の無い世界であるのに。
 僕はまともな生き方をしてきた人間では無いのかもしれない。それでも、そのままで生きていていいはずがないことは知っている。目の前にこのような絶対的な不幸が無かっただけのことであって、それを見て見ぬふりをして生きていくつもりはない。
 僕の正義感の為だけではない。人間がまっとうに生きていくには、どうするか。そのほとんどすべてが、このドラマには詰まっている。観ていないのなら、迷っている時間が罪である。しかし、純粋に面白いので、止められなくなるでしょう。お楽しみあれ。
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おいハンサム‼ ハンサムで居たい父

2022-10-05 | ドラマ
おいハンサム‼ 

 三人娘に何かカッコいいことを言いたい父親。娘たちはみな、男運が悪いというか、つきあっている男たちに問題がある。もちろん彼女たちにも問題があるのだったが……。いろいろとこだわりというかうるさい考えを持っている男なので、そういう些末なことが気になりながら、今どきの家長として威厳を保ちたいということかもしれない。
 原作は漫画作品だという。8回のドラマだが、何か一貫したストーリーで8話がつながっているという感じではない。いろんなエピソードがちりばめられたように展開され、まるで四コマ漫画の繋ぎ合わせのようにお話が進んでいく。娘たちの境遇と男たちとの付き合いについては順を追っての展開があるが、いわゆる奔放に男と付き合って別れて、ということの繰り返しということだろうか。しかしながらそれぞれの方向付けというものは、なんとなくわかることになる。
 娘たちは男を見る目が無いということになるが、男をわからない女たちではない。ちゃんと付き合う男のことは分かっていて、ある意味その都度楽しんではいる。次女だけは、かなり失敗してしまった感じの結婚をしているが、しかしそれもちょっとした勘違いとずれであることは、男の方は気づいたようだ。新しくもっといい男が現れそうだから捨てられたに過ぎない気もする。まあ、それでこの男のためにもなっている気もするが……。
 長女は最初から破滅的で、本当にちゃんと男と付き合うことを考えている風ではない。結果的に良く確かめず不倫であったり、いい感じだと思っていたら自分本位であるような男と出合ってしまう感じだ。それで結局嫌になって、いわゆる取り換える。理解してくれる男の一人も、そうたいした者でさえない。もっともドラマ的にはいいこだわりのある人物として描かれてはいるけれど。
 三女が一番若い分、まだ男のことが分かっていない設定になっている。だから男に振り回されながら、女としての成長の経験をしているように見える。そうして選んでしまう結果がいいともいえないが、まあ、それでいいというまともさはある。
 そういう娘たちに向かって、自分の偏見を棚に上げながら、説教をして心配している父親がいる。僕には娘がいないのでわかりようがない気もするが、娘の前でも格好をつけたい男心のようなものがあるようだ。そうしてそれは、呆れられながらも、妻の協力もあって、かろうじて成功しているように見える。娘たちはそれなりに賢いので、そういう愚かな父親のことが可愛いのである。娘達が他の男たちのものになるのは嫌なのだが、ずっと好かれてもいたい。こういうのは、いわゆる理想形の父としての姿なのかもしれない。
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もっと続けて観ていたかった   シェフは名探偵

2022-10-03 | ドラマ

シェフは名探偵

 原作小説があるらしい。一連の短編があるようだが、それを再構築して、基本的には一話完結の連作ドラマになっている。題名の通り、ビストロにやって来る人々の何らかの謎を、料理を提供しながら話を聞いているシェフがひらめきの推理を発揮して読み取ってしまうというのが、一応のミステリになっている。さらにこのシェフにも、過去に何らかの問題を抱えていて、結末としても、そのシェフ本人の謎解きで終結することになる。
 殺人事件が起こるような、大きなミステリではなく、いわゆる日常にあるような些細な出来事から、その裏に隠されている人間ドラマを読み取ってしまうというもの。しかしながらその洞察力というのが異常なほど鋭く、このドラマではおせっかいと言っているが、その個人にかかる問題としては、決して小さくはないドラマだとは思われる。ちょっと大げさすぎる仕掛けがある場合もあるが、おおむね小さく驚くことでお話がつながっていく。キャラクターも活きていて、それぞれの事情と重ね合わせ、そういうことでここに揃っているのだと納得がいくものである。そうしてそれぞれはドラマの回において、謎解きの主人公でもある。最終的には三舟シェフの物語になるのであるが……。
 実際にフランスで修業したというシェフでありながら、出される料理は、いわゆる肩ひじを張ったものではなく、田舎の家庭料理である。フランス料理でありながら、通える程度には安価に提供されているという設定だ。人気店でもあり、おおよそ予約でいつも満席になる。小さい店であるというのもあるが、それはそうだろうな、という魅力が伝わってくるようだ。実際に出される料理も当然旨そうで、こんな店が実際にあったらな、とも思った。田舎では採算取れないかもしれないけれど……。
 最近どういう訳かドラマにハマってよく観ているが、間違いなく「当たり」、という感じで楽しめました。
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恋せぬふたり(NHKドラマ)を観た

2022-09-30 | ドラマ

 恋愛感情を抱くことが無く、性的な欲求も無いという人がいるらしい。しかしだからと言って孤独でいたいわけでもない。そういうことをわかってもらいたい欲求はあるし、そういう者同士で、家族(仮)のような関係を築けないか、という実験のようなドラマである。
 主人公の咲子はいわゆる異性愛というものが理解できないし興味もない。しかし異性からは好かれるしセックスもしたことがある。それは相手の欲求に合わせていたというだけのことで、何か違うという違和感でしかない。適齢期の女性でもあることで、家族の期待もプレッシャーになっている。しかし、そういうモヤモヤを理解してくれる人は皆無のような絶望感の中で、仕事をしたり生活したりしている。ところがある仕事先でのこと、これを理解している仲間がいることを発見する。嬉しくなって近づき、相手の男性(高橋)の住む古民家に転がり込んで共同生活をすることになる。高橋の方も独り身であるばかりか、そのような性的な志向性がある人物で、女性との共同生活をすることで、周りの人間に説明するわずらわしさから逃れられると考えたようだ。しかしながらこのことにより、咲子の家族はかえって喜びのあまり勘違いを深め、二人の関係に期待を寄せるようになるのだったが……。
 設定の面白さもあるし、実際の啓蒙もあると考えられる話である。そのような人々の苦しみというのが分かるし、しかし理解できない周りの人間とのギャップをいかに埋めていけるのか、という実験でもある。そういう無理解の中にある絶望的なトラブルの数々に、それぞれの立場の人々は深く傷つけられることになるが、理解できないながらも相手を認めるよりないことも学習していく。何しろこの二人は、異性としての性の交わりの無い共同体であり、家族(仮)の体現者なのだ。
 という訳でなかなか面白い展開だったのだが、そうであるからこそ何かの期待のようなものが付きまとって、ちょっとモヤモヤはすることになる。それだけ僕自身にも理解できない壁のようなものが、歴然とあるためであろう。特に男の高橋という人物が、人間的にできすぎているし女性に対して都合の良すぎるというのが引っかかった。最後まで咲子のためだにいるような神のような存在である。自分の生きる道のようなものを掴んでいくことにはなるが、その世界でも引き続き苦労するはずであることのモヤモヤが、どうしても残ってしまった。また咲子にしてみても、元カレとの新たな付き合いがあるにせよ、彼は性愛欲求のある男のままなので、新たな生活があるだろうことも予見される。そういう友人関係があってもいいと思うが、相手の女性がそれを許すかは分からない問題ではないか。近しい間柄になれば、根気よく詳しく説明していくことである程度の理解を得られるとは思うものの、その繰り返しの人生を続けて行くことは、やはりかなりしんどいことなのではなかろうか。
 自分の感覚的なことの共有理解というものは、そもそもが難しい問題なのだと思う。だから文学作品のようなものが残っているわけで、読んだところで簡単に人に説明するのは困難だ。また読んだとしても理解できるとも言い切れない。ましてやリアルな人間関係や、親子のような肉親の間柄であればこそ、そのハードルの高さは困難を極めるだろう。ドラマ的には上手く考え方を整理しているように見えるが、要するにそういうものとは戦わない覚悟のようなものが必要そうに見える。(仮)のままであっても、保留のままであっても、そのままで行くしかないのかもしれない。
 しかしどうしても引っかかるのは、人間は性愛の問題はやはりあるように思うし(ここではまったくない設定だが、それだけの人だけではない場合だってありそうである)、恋愛できない人間がそこで苦労する物語だと、単にモテない話でおわりそうになってしまうのだろうか。でも彼らはものすごくモテるのだろうという設定であり、それで周りが傷ついてしまうことになる。相手の気持ちに絶対にこたえられない存在というのは、このような人以外にもふつうにいるわけで、そういうことが混ざることによって、さらに人間関係というものが複雑化するようにも思う。
 まあそれこそが、既にふつうにある人間関係のありよう、という気もしないではないのだが……。
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おいしい給食があったらしいのだ   おいしい給食

2022-09-28 | ドラマ

おいしい給食

 普通はこういうタイプのドラマはあまり観ない筈なのだが、どういう訳か見ハマった。シリーズは続いているらしいし、映画にもなっているという。いわゆるグルメもののはずだが、なんだか様子もちょっと違う。基本的に80年代の関東地方の当時の給食をテーマに、いかにその給食愛でもって旨く食することができるのか、というバトルものになっている。異常なほどの給食愛のある教師がいて、給食を食べるために学校に来ているようなものなのだが、ある生徒が、その教師以上に給食愛をもって食べることができるというショッキングな対決が展開されるのである。かなりのオーバーアクトを市原隼人が演じていて、はまり役である。それだけで十分でありながら、若い教師役の武田玲奈も目が大きくて可愛いし、ライバル生徒役の佐藤大志もミステリアスでいいのである。ちょっとあり得ない設定だと思うが、こういうことがあれば、給食も楽しかったのかもしれないと思わせられる。もっとも僕の時代に近い出来事でありながら、関東地方の事情はかなり違うし、僕らのころには中学で給食は無かった。それで弁当を食べて大変に良かった記憶しかないけれど、小学生でも楽しく給食を食べるような記憶が僕にあれば、もっと人生も変わってものになったかもしれない。
 最後の二話のスペクタクル展開はお話を〆るためのものだったかもしれないが、毎回展開されるワンパターンこそ、このドラマの面白さであることは間違いない。実際にはそんなにおいしいものでは無かったはずの給食だが、食材をはじめ、給食センターで作られた事情も含めて、どうしてこのような献立になったのかも、つぶさに分かるようになっている。給食に出される料理というのは、当時の家庭料理とはかなり違った異質の存在だったわけだが、なるほど、そういうことだったのか、ということも歴史資料として理解できる仕組みである。さらにひょっとしたら、それなりに美味しかった可能性さえあったのだ。
 僕個人としては、金属製の器をはじめ、パンと牛乳をベースにした子供の栄養にも配慮した教育の要素のある給食というのは、子供時代の記憶の中で、あまりいい印象ではない。あえて言うと、それなりの拷問に近いひどいものだった。それでも腹が減るのでおかわりして食べはしたが、美味しかった思い出は、それほどありはしない。給食服を持っていく煩わしさもあったし、何より日頃母親が作る料理とか、日本食なのかどうかも判別不能なほど異質でなものだった。ほとんど口に合わないものを食べさせられることは、苦痛の方が多かった。こういうのを食べさせる、教師の方も大変だったのではあるまいか。
 そうした負の自縛から解放されるドラマの開放感があって、おそらくこのドラマが成功しているのだと思われる。今の子供が見ても、面白いのだろうか……。
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営業マンは正直な人がいい?   正直不動産

2022-09-14 | ドラマ

正直不動産

 NHKオンデマンドで観た。原作漫画があるらしい。
 不動産の営業の永瀬は、嘘を並べて客を騙しまくり、常に営業成績はトップに立つ男だった。ところが建設中の土地にある祠を壊したことから祟りにあい、嘘がつけなくなる。これまでの営業スタイルでトークを展開しようにも、自分でその嘘をすべてばらしてしまう。当然不動産の営業成績は下がりまくり、住んでいるタワマンからも引っ越しを余儀なくされ、安アパートで屈辱的な生活をすることになる。しかしながら、正直な営業をすることになり、逆に客から信頼を得ることにもつながっていくことに気づくことになる。さて、永瀬はこのまま正直な人間として生きていけるのだろうか。
 不動産に限らず、営業マンは都合のいいことを言って客を騙しているのではないか、という疑いが元々あるのかもしれない。特に不動産関係は、一度騙せたら、その後の関係は長期であるうえに、逃げ切れる感覚がある。契約を結べば、それは客が納得したものとみなされるということだろうか。永瀬が勤める不動産屋は、なぜか大手の悪徳不動産から恨まれていて、執拗に嫌がらせを受けることになる。相手はなりふり構わず嘘や罠を仕掛けてくるが、それを正直なだけでかわしながら、成績を伸ばすことができるのか。物語は大きく動くことになる。
 基本的にはギャグなのだが、これは不動産業界ではありそうだな、という問題の解説めいたことになっている。なるほど、そういう事情があって変な物件が借り手に渡ったりすることもあるんだろう、ということが分かる。客も馬鹿にしか見えない人々も多く、情報の偏りのある業界人の方が、はるかに力の強い関係である。そういう中で金を払う側の弱さのようなものがあって、不動産業者がいかに顧客に寄り添うことができるかどうかで、大きく結果を変えてしまうことになる。ある意味当然だけれどお金の金額が大きく動く場合もあるのだから、恐ろしい話である。すべて嘘で乗り切ることができるほど、甘くはないとは思うものの、一度トラブルに巻き込まれる面倒のことを思うと、結局まかせっきりにしているとこは多いのではないか。このドラマを観て勉強してから、不動産関係に当たるべきかもしれない。もっともかえって怖くなって、何もできなくなるかもしれないけれど。
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ドラマ:みおつくし料理帖/今頃になって観る

2022-08-18 | ドラマ

 原作小説は長く読まれたベストセラーであるらしく、未読だが、おそらく力のある作品なのだろう。著者の髙田郁(かおる)は、この作品で作られた料理を実際に自分で作ってみて、各エピソードの終わりにレシピも載せたという。ドラマの方でも、毎回料理の作り方を主演の黒木華が手ほどきしてくれる。一緒に二枚目の料理人(柳原直之という人らしい)も最後に出てきて、一言でもう一品の指南をしてくれる。そういう仕組みもたいへんに楽しいのだった。
 ドラマとしては民放で先に作品化されていたらしく、そこでは北川景子が主演だったそうだ。それは未見であるから比較しようが無いが、NHKのこの連続ドラマは、黒木華の演技が、なんと言っても冴えている。けな気さと力強さの強弱を見事に演じ切っているのではあるまいか。
 僕は先に紹介したように、映画の方から観てしまったので、それでも面白いとは思ったものの、このドラマを観た後では、その出来栄えの差にこちらに夢中になったという感じである。きっかけとしてはありがたいのかもしれないが、ふつうはこのドラマの方を観るべきなのである。その出来栄えの差は歴然としている。
 何しろ原作小説がそれなりの長編であるようで、流れやエピソードも豊富なのだろうと考えられる。大きな筋としての掴み方はともに同じものが使われていたにせよ、その細部にわたるちょっとした布石のようなものが、どうしても映画の尺では描き切れなかったのだろう。もちろんドラマでもそのあたりは端折っているはずなのだが、いくぶん余裕をもって、男女の機微などを描くことができたのではないか。料理とともに重要なのは、やはり澪自身の恋愛感情の物語であることは間違いない。
 好きになってしまったのは侍の小松原だったが、この侍も澪のことを気にかけている以上に思っているらしいことは見て取れる。これに若い町医者の源斉が静かに横恋慕しているという構図がある。源斉としては、澪の気持ちを知っている以上、踏みとどまざるを得ないという感じだろうか。小説ではもっとふくらみのある展開になるらしいが、ドラマではそのあたりの差配が微妙なりに上手くいっているのではないか。
 さらにもっと重要なのは、幼馴染であるが花魁になってしまったあさひ太夫との関係なのである。女同士の友情の美しさに、素直に心打たれることになる。恋愛以上に相手を思う心の強さと、間に立ちはだかる社会的な障壁の大きさに耐えるつらさが際立っている。時代小説だからこそ描ける人情噺なのである。
 ついでのようだが、音楽もいいし、その時代はそういう感じなのかな、という小道具などの使われ方もいいと思う。実際には知らないことだが、これまでの時代ドラマでは、あまり気にしない細部に気が使われている気配があって、物語を引き締めている。悪人もたくさん出てくるが、さらにそれらのすべてに明確な復讐などもされない割には、カタルシスとしての心残りも少ない。全部が良くならなくても、おそらく続きがあり、そうして澪は前向きなのである。料理を作るというのは、毎日完成品を作り上げることでもある。そういうあたりが、一種の潔さの表れなのかもしれない。
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夫の多い人生   大豆田とわ子と三人の元夫/

2022-01-21 | ドラマ

大豆田とわ子と三人の元夫/
 ここで紹介するのが適当かどうかはともかく、映画でもないし、連続ドラマなんてほとんど見ないので、個人身辺雑記的なここで紹介することにする。
 大豆田とわ子は三度の離婚歴があり、その都度名字を変えたので過去に会ったことのある時期において呼ばれ方が変わって面倒である。彼女はある設計事務所で働いているが、社長に抜擢される。女性である上に、下からのつつき上げもきつく、利益を上げづらく経営もきつい(会社のオーナーは任せっぱなし)。普段は娘と二人暮らしだが、ひょんなきっかけで、過去に離婚した元夫たちと最初に離婚した夫の店でよく顔を合わせるような関係に戻ってしまう。元夫たちは問題を抱えながらも、まだとわ子との思いを断ち切れていないようでもある。そうしてそれぞれの別の女性問題を図らずも抱えながら、複数人の関係も複雑化していくのだった。もちろんとわ子自身ととわ子の親友のカゴメやら娘の唄であるとか、会社関係者などの事情がスパゲティ状に絡み合ってお話は展開していく。
 僕は連続ドラマにはほとんど食指が動かないのだが、なんとなくうわさを聞いて観る気になった。むっちゃお洒落なトレンディ・ドラマのような感じではないらしいし、しかし観ていて面白いという。なんだろうそれは。それで見ていて思ったのは、確かに会話の妙があって、お互いのその場の関係性で交わされている言葉のアヤの世界観が、その進行を支えている。途中からいろいろと状況が変化するが、詳しい説明は特にない。交わされる会話で内容を補填しながら眺める。時にはダイナミックな恋の駆け引きになりそうにもなるが、あっという間に幕引きが行われたりする。会話の今こそが命で、その時に流れている感情の揺さぶりを楽しむお話なのである。
 強烈に恋を欲している時代は過ぎてしまったかもしれないが、だからと言ってもう二度と恋なんてしないと思っているわけではない。それにもしかすると、また結婚だって絶対しないなんてことも無いかもしれない。何もかもは終わりには近づいている世代かもしれないが、何もかもが終わってしまった訳ではないのだ。むしろそれなりの自由もあって(元夫は三人もいるにせよ)主導権だって持っている。この人はずっとモテてもいたかもしれないが、いわゆる今こそモテ期なのだ。それが楽しくないなんてことないじゃないか。
 という訳で、楽しめました。松たか子って、なんだかんだ言っても強いんだね。素晴らしかったです。
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偉いという話じゃないが、シロさんもケンジも偉い

2021-10-13 | ドラマ

 料理番組をよく見る件は以前にも書いた。さらに料理にまつわるドラマもよく見ているとも過去に書いた。その中でも、なんだかちょっと違う視点なのは、「きのう何食べた?」だったかもしれない。ゲイ・カップルの物語なので、基本的には純愛を描いているドラマだけれど、そこでの料理の使い方が非常に上手い。最初はシロさんと言われるイケメンで几帳面で主婦的な視点の持ち主が、料理を担当する役割の人だと思われたのだが、いわゆる所作が女性っぽくて、しかし髭面のケンジだってふつうに料理は作るのである。同棲している関係もあり、どちらかというと几帳面で家に比較的早く帰って来るシロさんの方が、確かに多くの場合料理は担当しているが、それは絶対的な役割というわけではない。
 この物語を見た方が話は早いが、そんな風に書くと、男だって料理だってするさ、って感じる人もいるだろう。ところがこれが上手く言えないのだが、この二人の描き方においては、何かそういう当たり前にどっちがすべき感というのが上手く抜けていて、合理的に普段はやってるけど、やっぱりふつうにどっちだったってスキルはあるんだよ、って感じかもしれない。
 もちろんケンジには、キャラクターとして自由に不経済に(たまにはいいじゃん、みたいな感じ)料理を作るわけだが、だから普段はシロさんが買い物も含めて、栄養のバランスやその他もろもろの総合的なものとして二人の生活の基盤の料理を作っているに過ぎなくて、結局食べたいものがあれば、どちらともなく料理は作れるのだ。一人飯でも作れるし、二人分でも大丈夫で、客が来ても、それに対応するだろう。それぞれにできて、しかしその選択は自由に順位づけられていて、そうして自然ということだ。やっぱり説明すると厄介だな。
 僕は食事を作らない方の性として生まれてきてしまったんだな、とこれを観て改めて感じることが多かった。先のことは分からないから絶対ではないけれど、おそらく僕はゲイの道は歩まないことだろうけど、だからなのかもわからないけど、自然に料理に向かうような姿勢が、そもそも身についていなかったんだな、という感じだろうか。期待をされるということも無かったし、自分で自発的にということも無かった。インスタントラーメンを作るというのとは全然違うレベルで、自分のためだったりお互いのためだったりする食事を作るという意識が、まったくなかったんだな、という感じである。でもそれって、そもそも損なわれている「何か」なのかもしれない。
 僕は家に帰ってもまず冷蔵庫の中身を見ることはないし、ましてや何の肉があるのかとか、野菜の種類がいくつあるのかなんて見当もつかない。おそらく氷はあるんじゃないか、という程度だし、お茶くらいは自分で取って飲むこともあるかもしれない。
 しかし家にいると、しかるべき時間になると食事を当たり前にしているわけだ。これって考えてみると、かごの中で飼われている鳥とか、水槽で泳いでいるメダカ程度のものかもしれない。彼らは軟監禁されているのだから、僕は自主的にそうなっているわけで、厳密には同じなんて失礼な話だが、まあ、生きているレベルとしては僕の方が下なんだろうな。
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食レポか、食ドラマか

2021-09-23 | ドラマ

 netflix観てると、やたらと食べ歩き物のドラマをお勧めしてくる。何か僕の履歴に問題があるのか?
 元々だいぶ以前に深夜食堂は観ていた。おかまに惚れられるやくざの物語のおかげで、また赤いウインナを食べるようにもなったし……。
 それでこの深夜食堂のシリーズがそれなりにあるようだ。これは料理を食べにくる人々の群像劇になっていて、深夜の食堂に来る客というのは水商売系が多くて、さらに何か人間関係に問題のある人々が多い。そういう人が、食べるものと関係のない内容のエピソードが繰り広げられる。多少大人向け男女の機微を扱ったものが多いようだが、時間の関係もあるのか、かなり断片で終わることも多い。でもまあ、そういうもんかもね、という楽しみ方をすべし。
 朝ドラを見ている人たちの間でちょっと話題になったらしいのが「きのう何食べた?」らしい。同じ出演者が違う立場で出会うのが面白いということだろう。主人公の二人はゲイのカップルで、そういう境遇とはどういうものなのか? ということを交えていろいろ食べることになる。基本的には食事を作るのは、弁護士のシロさんの方だ。こだわりが強く、主婦的な感覚を持っていて、そういうのに向く立場ということだろう。確かに料理の腕はあるようで、作られたものは結構おいしそうです。
 この二つは、食べ物を食べるが、物語の力で観る作品ではある。夜の街の事情のある人々と、ゲイの人たちの悩みとはなんだ? ということか。どちらともなるほどね、ということなんだろう。
 さて、あと二つ。
 三つめは「孤独のグルメ」である。これも長寿番組で、結構前に深夜のものを録画して観ていた。でもまあ面倒になって観るのやめたのだっけか? しかし僕は漫画の方も持っていて、漫画にはひどく感心した。ドラマも悪くないのだが、あんがい別物である。
 しかしこの別物ドラマというか食レポの井之頭五郎(松重豊)が、なんとも素晴らしいのである。みんな知ってるだろうからいまさらだが、こんなにいろいろ食って味のある人物はそんなにいない。自分の心の声アナウンス実況も良くて、どうかしているよ、まったくこの人は。
 で、まあこれの亜流であろうけど、だいぶ若くなったのが「絶メシ」である。正確には「絶メシRoad」であるらしい。車中泊してその少し遠くの街で、ひょっとするともう店の引継ぎ手などがいなくなり絶滅してしまうかもしれないごはんであることと、絶品メシをかけてそう呼んでいるらしい。基本的には食レポで、心の声も孤独のグルメと同じようなものである。確かに紹介されている店は、一風変わってはいるのだけれど……。
 というのをグルグル見続けていると、なんだか自分が馬鹿ではないかと思えてくる。面白いようでいて、ちょっとむなしくなるのかもしれない。外に出て、何か食った方がいいのではないか。まあ、それがあんまりできないから、こんなことしてるんだろうけれど……。
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ボロ宿と男女の珍道中・日本ボロ宿紀行

2020-05-02 | ドラマ

 「日本ボロ宿紀行」というテレビ・ドラマ・シリーズを見た。元は書籍があるそうだが、それは知らない。過去に一曲だけヒット曲がある歌手に、マネージャー兼プロダクションの社長である若い女がついて旅をする。このマネージャーの春子がちょっと変わっていて、ボロ宿が好きなのである。もちろん、貧乏旅行なので金がないという前提もあるんだが、ちゃんとしたホテルに泊まれないことを逆手に、ひなびた、というかとっくにさびれて閉館してもおかしくないような宿に喜んで泊るのである。歌手である桜庭は、嫌々ながらも金が無いことだし、売り言葉に買い言葉で、売れ残った自分のCDを売りつくすまで、この旅をする義務を背負っているかのような気分があるようだ。それに過去の栄光だとはいえ、ひょっとすると復活できるかもしれない、という望みもあるのだろう。
 そういうことで、実際にあるらしいボロ宿を紹介するというドキュメンタリーと、この二人の珍道中のドラマが合体した物語になっている。お話自体はなんだか古びた浪花節みたいなものだが、妙にしっくりくるのも確かで、売れなくなった歌手の役をしている高橋和也が非常にはまっている感じだ。若い女社長のこなれていない感じも、確かに物語にあっている。けなげというか、一筋に桜庭の歌にかけているものがあって、しかし気が強く、ことごとく桜庭とは対立する。
 実は、退屈している母が、このおてんば娘と歌手が喧嘩しだすと途端に喜ぶのである。母は昭和一桁で、気分的には従順な妻というか女というか、そういうものを理想にしているきらいがある。しかし実際に好きなのは「赤毛のアン」のようなおてんば娘で、さらにカリオストロをはじめとする宮崎駿アニメのファンである。要するに女の子が男に反抗して乱暴な口をきくと、途端に面白がるのである。なるほど、この物語なら母が喜ぶんだな、と思って、スルスルと12話を観てしまった。もっと続いてくれたらよかったのに。
 年は多少離れているが、男女が同じ宿に泊まる(一度は同じ部屋にも泊まる)にもかかわらず、いわゆるセックスというか色っぽさはみじんもない。そういうところはちょっと不自然であるのが普通だが、桜庭も自制が効いているし(恩人の娘とか、もともと相手にしていないとか、いろいろありそうだ)、さらに恋愛に発展する期待もそんなにいだかない。それであっても話が進むのは、ボロ宿が取り持つ怪しさもあるかもしれない。よく考えると妙な話のはずなのだが、それはそれでいいのである。「孤独のグルメ」なんかがそうだけれど、物語自体はそんなに興味なくとも、食っているだけでなんだかまた観たくなるというのがある。ボロ宿には、そのような共通の魅力があるということなんだろうと思う。ググったらなんとプロデューサーなどが同じなんだそうだ。このアイディアは、なかなかの発明であるらしい。是非もっと発掘して欲しい取り合わせである。
 というわけでこれはお勧めなのである。ボロ宿に泊まりたくなるかどうかは人次第だろうが、確かにこんな宿がいまだにあるんだなあ、と感心する。そうして次のシリーズやってくれないかなと切望するものであるから、多くの人の支持が欲しいのである。是非楽しんでください。
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テレビのスペシャルドラマ版らしい   東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

2018-11-30 | ドラマ

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン/西谷宏監督

 リリー・フランキーの半自伝的原作があるもののテレビ版。主演が大泉洋でオカンが田中裕子である。たぶん後に観ることになろう劇場版の「東京タワー」を借りたはずだったが、明らかに貸し出すDMM側が間違って送付してきた。仕方ないのでもう一度借り直しの処置はとった。この会社は謝罪もなんも無しの酷い体制だけど、めんどくさいのでそのまま関係がズルズル続いているような感じである。他の会社がもう少しましになったら乗り換えるだけのことである。
 ということなんだが、マイ・ペースの曲「東京」が何度も何度もかかる演出であった。以前喫茶店に入ったらこの曲ばかりかかる店で閉口したことがある。この曲は中毒にでもなるものなのだろうか。
 とまあ、内容とそんなに関係ないことばかり書いているが、原作は私小説的なところがあるようで、そういうエピソードをどれだけ拾って作品化したのか、というのがあるようだ。母が死ぬまでのお話なので悲しい訳だが、その悲しさは母との関係があるからである。自分という存在を無条件に受け入れてくれる人というのはそんなにはいない訳で、要するに多くの人にとっての母はこのようにスペシャルなのである。父親もものすごく凄い人だが、まあ、時々なのでいいのだろう。
 東京で働く人という中でも、このように芸能の社会というか、タレント性の高い仕事をしている人というのは、やっぱり特殊である。その特殊性があるからこそタレントとして成り立つのだろうけれど、だから実はあまり一般的な話では無いのだろうとは思う。結果的に東京で母と暮らすというのは、あまり普通では無いのだろう。母はやはり田舎で亡くなるものなのではないか。
 情緒的な話なので、この長く続く悲しい感じに浸れるかどうかというのが観る人にはあるのだろうと思う。僕は情緒的な人間では無いので、リリーには興味があっても、ちょっと不思議な距離感で観ていた。終わってホッとするというか、助かったと思ったりした。特に意識した訳では無いが、こういう感じが大衆的なツボなのかもしれないな、とも思う。やはり僕には距離があるものなのかもしれない。
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