●最低保障を目指すべき権利(続き)
次に、各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利について、権利論の観点から検討したい。先に書いた欲求と能力の関係は、そのまま権利論の前提となる。まずあらためて強調したいのは、権利の種類及び内容の項目で述べた自由権・参政権・社会権及び「発展の権利」等を一括して、「人間が生まれながらに持つ権利」という意味で人権と呼ぶことは不適当だということである。人権とは「発達する人間的な権利」であり、ここでいう最低限保障すべき権利は、その意味での「人間的な権利」と言える。
自由権・参政権・社会権は、国家(政府)があることが前提になっている。自由権は国家の統治機関である政府の干渉・制約からの自由を確保する権利、参政権は政府の権力に参加する権利、社会権は政府に積極的な関与や給付を求める権利である。これらは、ほとんどが国家と国民の関わりにおける権利である。また「発展の権利」は、集団が発展する自由への権利であり、多くの場合、ネイションの形成・発展を目標とする。
ある国の国民であることを示す資格として、国籍がある。一国において非国民に国籍を与えることは、自国の国民と同等の権利を与えることである。国籍は、国民の権利証である。この点を加えて、権利について言い換えれば、自由権は、自分が国籍を持つ国の法によって保障される自由への権利である。参政権は、自分が国籍を持つ国の政治に参加する権利である。社会権は、自分が国籍を持つ国家の政府に関与や給付を請求する権利である。そして、それらの権利を保障するものは、その国民が所属する国家の政府である。それゆえ、保障される権利の内容は、当然国によって違う。こういう権利は、普遍的に人間が生得的に持つ権利という意味での人権とは言えない。ここで保障されるのは、あくまで国民の権利である。
近代国家における自由権・参政権・社会権以外に、近代西欧以前及び以外の社会にも、権利は存在した。家族・氏族・部族においても、組合・団体・社団においても、各々その集団の成員に権利が認められてきた。その権利は、ほとんどが集団の成員の権利である。国民の権利は集団の成員の権利が発達したものであって、集団とは別に個人の権利が発達したものではない。
こうした事情を踏まえたうえで、私は諸国民の権利とは別に、最低限保障を目指すべき権利を検討すべきと考える。最低限保障を目指すべき権利として、私は、空気、水、食糧、安全な住居、家族的生命的集団への所属、言語・計算に関する基礎的な教育を得られる権利を挙げる。なぜこのように考える必要があるのか。人々が権利として主張し得るのが各国における「国民の権利」だけであれば、専制国家・独裁国家における人民の権利の擁護や拡張を訴えることはできない。私は、それぞれの国の国民の権利とは別に、所属する国家の違いを超えて、広く保障を目指すべき権利を設定し、各国及び国際社会は、その実現に努力することが必要だ、と思うのである。
最低限保障を目指すべき権利とは、国家または集団がその成員に対して保障すべき権利であり、またそうした保障を受けられない例外的な状況にある人々に対しても最低限追求されるべき権利である。この権利は、「人間が生まれながらに平等に持つ権利」ではない。普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、人類が道徳的な目標として実現すべき「発達する人間的な権利」である。
ここで道徳的とは、法律的と対比したものである。道徳とは、ある集団で、その成員の集団に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体である。道徳には、集団の規模と原理の及ぶ範囲によって、家族道徳、社会道徳、国民道徳があるが、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」の実現を追求するには、人類規模における道徳、人類道徳を構想する必要がある。
道徳的目標とは、法律的課題とはできないことを意味する。国家間の条約等を国際法と呼ぶが、国際法は各国が定める国内法より上位の法とは言えない。国際法は、国内法に比べて、実力による強制装置が組織化されておらず、制裁の実施も国家間の力関係や政治的な駆け引きに左右される傾向がある。条約等は加盟国に一定の影響力はあるが、執行に関して、物理的実力の行使による強制力がない。違反した場合の罰則がない。各国に属する個人にも、直接的な義務がない。こうした規範は、法律的規範ではなく、道徳的規範である。主権国家の上に立つ地球的・統一的な政府は、存在しない。こうした国際社会の現状においては、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」の実現は、道徳的目標でしかありえない。
「国民の権利」とは別に「発達する人間的な権利」として、人権を設定するとすれば、その定義や範囲を明確にしなければならない。現在の世界でどこの国でも最低限保障されるべき「人間的な権利」と、各国において国民が定めるべき「国民の権利」とを区別し、混同や不当な侵食を防ぐ必要がある。
人権を広く保障すべきという方向は、権利を主に参政権・社会権へと広げる方向であり、人権の内容を限定すべきという方向は、主に自由権に限定する方向である。私は、歴史的に拡大してきた人権の概念を再定義し、自由権を主としたものに改めるべきと考える
国際人権規約は、「経済的、社会的、文化的権利に関する国際規約」(A規約)と「市民的、政治的権利に関する国際規約」(B規約)に分かれている。わが国では、A規約に定める権利を社会権と総称し、この規約を社会権規約と呼ぶ。またB規約に定める権利を自由権と総称し、この規約を自由権規約と呼ぶ。自由権と訳される「市民的権利(civil rights)」は civil という市民・公民・国民に関する形容詞を付す権利である。国家・政府の存在を前提としている。また「政治的権利(political rights)」は参政権と訳され、自由権と区別することができる。それゆえ、B規約に定める権利は、自由権と参政権に区別し、また自由権を「人間的な権利」と「国民の権利」に分けて検討する必要がある。それによって、狭義の自由権を最低限保障を目指すべき「人間的な権利」とし、広義の自由権並びに参政権及び社会権を「国民の権利」に分類し直すべき、と私は考える。
最低限保障を目指すべき「人間的な権利」の内容として、私が考えるのは、空気、水、食糧、安全な住居、家族的生命的集団への所属、言語・計算に関する基礎的な教育を得られる権利である。これらは、一般的にいう自由権の一部であり、自由権の主要部分をなす精神・生命・身体・財産の権利に当たる。これに比し、言論・表現・集会・結社等の自由権は、社会的な活動に関する権利であり、国民社会に参加しなければ保障されない。これらが本来の「civil rights(市民権・公民権)」である。前者を狭義の自由権、後者を広義の自由権とすれば、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」は、狭義の自由権に当たる。欲求と能力の関係から言うと、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求を実現する能力の発揮に関する権利である。私は、先に挙げた権利を最低限保障を目指すべき権利と考えるが、それらは基本的潜在能力を発揮し得る必要条件を得られる権利であり、またその能力の発揮を妨げる生存への脅威、奴隷・性的暴行・拷問・略奪等からの自由への権利でもある。これらの権利の保障は、生きる上で最低限必要な物資と環境を提供することである。それゆえ、私の挙げる最低限保障を目指すべき権利は、「発達する人間的な権利」の基本的なものとして、基本的人権と呼ぶことは可能である。
これに対し、広義の自由権とともに参政権・社会権は、「人間的な権利」に含めることはできない。集団が解体・消滅もしくは孤立していれば、集団の意思決定に参加する権利、つまり参政権に当たる権利は、存在し得ない。また社会権は、国家を前提とした国民の権利ゆえ、当然、存在し得ない。自由権のうち精神・生命・身体・財産に関する権利が、「人間的な権利」として最低限保障を目指すべきもの、と私は考える。この権利を最低限保障を目指すべき権利として、各国の国民だけでなく例外的な状況にある人間をも対象として実現を図ることを、人類は道徳的な目標とすべきである。
最低限保障を目指すべき「人間的な権利」を超える権利については、各国家や各集団がそれぞれ「人間らしい」「人間的な」と考える権利の発達を目指すのでよい。目指す内容は、集団的及び個人的な人格的成長・発展の程度や社会の持つ価値観、経済・社会・文化・文明の発達度合によって異なる。また、この権利は、集団外の人間や非国民に対して、無差別に与える権利ではない。
次回に続く。
次に、各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利について、権利論の観点から検討したい。先に書いた欲求と能力の関係は、そのまま権利論の前提となる。まずあらためて強調したいのは、権利の種類及び内容の項目で述べた自由権・参政権・社会権及び「発展の権利」等を一括して、「人間が生まれながらに持つ権利」という意味で人権と呼ぶことは不適当だということである。人権とは「発達する人間的な権利」であり、ここでいう最低限保障すべき権利は、その意味での「人間的な権利」と言える。
自由権・参政権・社会権は、国家(政府)があることが前提になっている。自由権は国家の統治機関である政府の干渉・制約からの自由を確保する権利、参政権は政府の権力に参加する権利、社会権は政府に積極的な関与や給付を求める権利である。これらは、ほとんどが国家と国民の関わりにおける権利である。また「発展の権利」は、集団が発展する自由への権利であり、多くの場合、ネイションの形成・発展を目標とする。
ある国の国民であることを示す資格として、国籍がある。一国において非国民に国籍を与えることは、自国の国民と同等の権利を与えることである。国籍は、国民の権利証である。この点を加えて、権利について言い換えれば、自由権は、自分が国籍を持つ国の法によって保障される自由への権利である。参政権は、自分が国籍を持つ国の政治に参加する権利である。社会権は、自分が国籍を持つ国家の政府に関与や給付を請求する権利である。そして、それらの権利を保障するものは、その国民が所属する国家の政府である。それゆえ、保障される権利の内容は、当然国によって違う。こういう権利は、普遍的に人間が生得的に持つ権利という意味での人権とは言えない。ここで保障されるのは、あくまで国民の権利である。
近代国家における自由権・参政権・社会権以外に、近代西欧以前及び以外の社会にも、権利は存在した。家族・氏族・部族においても、組合・団体・社団においても、各々その集団の成員に権利が認められてきた。その権利は、ほとんどが集団の成員の権利である。国民の権利は集団の成員の権利が発達したものであって、集団とは別に個人の権利が発達したものではない。
こうした事情を踏まえたうえで、私は諸国民の権利とは別に、最低限保障を目指すべき権利を検討すべきと考える。最低限保障を目指すべき権利として、私は、空気、水、食糧、安全な住居、家族的生命的集団への所属、言語・計算に関する基礎的な教育を得られる権利を挙げる。なぜこのように考える必要があるのか。人々が権利として主張し得るのが各国における「国民の権利」だけであれば、専制国家・独裁国家における人民の権利の擁護や拡張を訴えることはできない。私は、それぞれの国の国民の権利とは別に、所属する国家の違いを超えて、広く保障を目指すべき権利を設定し、各国及び国際社会は、その実現に努力することが必要だ、と思うのである。
最低限保障を目指すべき権利とは、国家または集団がその成員に対して保障すべき権利であり、またそうした保障を受けられない例外的な状況にある人々に対しても最低限追求されるべき権利である。この権利は、「人間が生まれながらに平等に持つ権利」ではない。普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、人類が道徳的な目標として実現すべき「発達する人間的な権利」である。
ここで道徳的とは、法律的と対比したものである。道徳とは、ある集団で、その成員の集団に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体である。道徳には、集団の規模と原理の及ぶ範囲によって、家族道徳、社会道徳、国民道徳があるが、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」の実現を追求するには、人類規模における道徳、人類道徳を構想する必要がある。
道徳的目標とは、法律的課題とはできないことを意味する。国家間の条約等を国際法と呼ぶが、国際法は各国が定める国内法より上位の法とは言えない。国際法は、国内法に比べて、実力による強制装置が組織化されておらず、制裁の実施も国家間の力関係や政治的な駆け引きに左右される傾向がある。条約等は加盟国に一定の影響力はあるが、執行に関して、物理的実力の行使による強制力がない。違反した場合の罰則がない。各国に属する個人にも、直接的な義務がない。こうした規範は、法律的規範ではなく、道徳的規範である。主権国家の上に立つ地球的・統一的な政府は、存在しない。こうした国際社会の現状においては、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」の実現は、道徳的目標でしかありえない。
「国民の権利」とは別に「発達する人間的な権利」として、人権を設定するとすれば、その定義や範囲を明確にしなければならない。現在の世界でどこの国でも最低限保障されるべき「人間的な権利」と、各国において国民が定めるべき「国民の権利」とを区別し、混同や不当な侵食を防ぐ必要がある。
人権を広く保障すべきという方向は、権利を主に参政権・社会権へと広げる方向であり、人権の内容を限定すべきという方向は、主に自由権に限定する方向である。私は、歴史的に拡大してきた人権の概念を再定義し、自由権を主としたものに改めるべきと考える
国際人権規約は、「経済的、社会的、文化的権利に関する国際規約」(A規約)と「市民的、政治的権利に関する国際規約」(B規約)に分かれている。わが国では、A規約に定める権利を社会権と総称し、この規約を社会権規約と呼ぶ。またB規約に定める権利を自由権と総称し、この規約を自由権規約と呼ぶ。自由権と訳される「市民的権利(civil rights)」は civil という市民・公民・国民に関する形容詞を付す権利である。国家・政府の存在を前提としている。また「政治的権利(political rights)」は参政権と訳され、自由権と区別することができる。それゆえ、B規約に定める権利は、自由権と参政権に区別し、また自由権を「人間的な権利」と「国民の権利」に分けて検討する必要がある。それによって、狭義の自由権を最低限保障を目指すべき「人間的な権利」とし、広義の自由権並びに参政権及び社会権を「国民の権利」に分類し直すべき、と私は考える。
最低限保障を目指すべき「人間的な権利」の内容として、私が考えるのは、空気、水、食糧、安全な住居、家族的生命的集団への所属、言語・計算に関する基礎的な教育を得られる権利である。これらは、一般的にいう自由権の一部であり、自由権の主要部分をなす精神・生命・身体・財産の権利に当たる。これに比し、言論・表現・集会・結社等の自由権は、社会的な活動に関する権利であり、国民社会に参加しなければ保障されない。これらが本来の「civil rights(市民権・公民権)」である。前者を狭義の自由権、後者を広義の自由権とすれば、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」は、狭義の自由権に当たる。欲求と能力の関係から言うと、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求を実現する能力の発揮に関する権利である。私は、先に挙げた権利を最低限保障を目指すべき権利と考えるが、それらは基本的潜在能力を発揮し得る必要条件を得られる権利であり、またその能力の発揮を妨げる生存への脅威、奴隷・性的暴行・拷問・略奪等からの自由への権利でもある。これらの権利の保障は、生きる上で最低限必要な物資と環境を提供することである。それゆえ、私の挙げる最低限保障を目指すべき権利は、「発達する人間的な権利」の基本的なものとして、基本的人権と呼ぶことは可能である。
これに対し、広義の自由権とともに参政権・社会権は、「人間的な権利」に含めることはできない。集団が解体・消滅もしくは孤立していれば、集団の意思決定に参加する権利、つまり参政権に当たる権利は、存在し得ない。また社会権は、国家を前提とした国民の権利ゆえ、当然、存在し得ない。自由権のうち精神・生命・身体・財産に関する権利が、「人間的な権利」として最低限保障を目指すべきもの、と私は考える。この権利を最低限保障を目指すべき権利として、各国の国民だけでなく例外的な状況にある人間をも対象として実現を図ることを、人類は道徳的な目標とすべきである。
最低限保障を目指すべき「人間的な権利」を超える権利については、各国家や各集団がそれぞれ「人間らしい」「人間的な」と考える権利の発達を目指すのでよい。目指す内容は、集団的及び個人的な人格的成長・発展の程度や社会の持つ価値観、経済・社会・文化・文明の発達度合によって異なる。また、この権利は、集団外の人間や非国民に対して、無差別に与える権利ではない。
次回に続く。