大隅国分寺 跡
舞鶴城の近くにある大隅国 国分寺跡 を見に行った。広場に遺跡があり 古びた塔と2体の人物像が立ち、背の高い方の人物像は頭部が欠けてしまっている。。
「 聖武天皇の天平年間(729~748)飢饉・疫病・反乱がおこり、国内の世情が不安定となりました。 聖武天皇は五穀豊穣・天災地変・争乱の災禍をなくし、仏典の宗教的統率力をもって国家の統治・平和をはかるために、天平13年(741)国分寺建立の詔(みことのり)をだされました。 国分寺は金光明四天王護国之寺(僧寺)と法華滅罪乃寺(尼寺)があり、当地は僧寺跡です。大隅国分寺の建立については、奈良時代末から平安時代初期の頃といわれています。 石造層塔・・・康治元年壬戌十一月六日(1142) ”護国・・・ ” と銘のある層塔で、大隅国分寺の再興を祈願して建立されたものと考えられます。」・・・・・と立て札に説明書きがある。 ささやかな遺跡ながら全体はいかにも古びており 歴史に興味を惹かれそうな趣きをもっている(8月14日 記)
舞鶴城の近くにある大隅国 国分寺跡 を見に行った。広場に遺跡があり 古びた塔と2体の人物像が立ち、背の高い方の人物像は頭部が欠けてしまっている。。
「 聖武天皇の天平年間(729~748)飢饉・疫病・反乱がおこり、国内の世情が不安定となりました。 聖武天皇は五穀豊穣・天災地変・争乱の災禍をなくし、仏典の宗教的統率力をもって国家の統治・平和をはかるために、天平13年(741)国分寺建立の詔(みことのり)をだされました。 国分寺は金光明四天王護国之寺(僧寺)と法華滅罪乃寺(尼寺)があり、当地は僧寺跡です。大隅国分寺の建立については、奈良時代末から平安時代初期の頃といわれています。 石造層塔・・・康治元年壬戌十一月六日(1142) ”護国・・・ ” と銘のある層塔で、大隅国分寺の再興を祈願して建立されたものと考えられます。」・・・・・と立て札に説明書きがある。 ささやかな遺跡ながら全体はいかにも古びており 歴史に興味を惹かれそうな趣きをもっている(8月14日 記)
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