シャツのほころび涙のかけら

昔よく聞いたNSPのタイトルを拝借。…趣味や日常を綴っています。基本はガンバレ自分!時々覗いてみてください。

魚沼市『西福寺・開山堂』その1

2013-05-12 | お出かけ

GWの5月4日、実家から魚沼市の西福寺に行ってきた。(私・妻・娘の3人で。)
前情報としては「どうやら彫刻で有名なお寺があるようだ」という程度。娘がケータイで捜しながら出発。魚沼市にあるらしいと分かった・・・。

エ~魚沼市!?・・・魚沼市に限らず、平成の大合併のおかげで県内の市は名称だけでは地理的にピンとこなくなったな。
魚沼市は平成16年11月1日に、北魚沼郡堀之内町、小出町、湯之谷村、広神村、守門村、入広瀬村が合併して誕生した。

魚野川沿いの面積の狭い堀之内町、小出町から越後山脈(福島側)に広がる広い市だ。
湯之谷村は奥只見ダムから尾瀬に、入広瀬村は只見線で福島に抜ける。
南は2000m級、北東側は1500m級の山々だ。

目指す所は旧小出町だった。県外の方は分からないと思うが、東京からだと「トンネルを抜けると雪国だった」の湯沢→塩沢→六日町→大和→小出の順になる。

関越自動車道小出ICからは車で約5分。上越新幹線の浦佐駅(旧大和)から車で約10分。
この浦佐駅もなかなかのもので・・・(長くなるのでやめておこう)。


さて、西福寺だが正式には『赤城山(せきじょうさん)西福寺(さいふくじ)』という曹洞宗の寺院。

赤城山西福寺は1534年室町時代後期(天文年間)に開かれ、約500年ほどの歴史がある。現在の本堂は1801年に再建。本堂の左手に連立された開山堂は、江戸時代末期の1857年に二十三世蟠谷大龍(ばんこくだいりゅう)大和尚によって建てられ、開山堂の向拝、堂内には、幕末の名匠石川雲蝶の彫刻、絵画、漆喰細工など数々が施されている。

駐車場から山門をくぐると、正面に本堂。


本堂の右隣には庫裏(くり)があり、拝観受付となっている。庫裏は寺に暮らす人達の生活スペースのことで、駐車場側から側面をみるとその長さに驚く。


左手前に開山堂がある。建築の様式は、鎌倉時代禅宗仏殿構造、屋根は茅葺き二重層、上層部入母屋造り、総欅五間四方、唐破風向拝を有している。

 

当地はいうまでもなく豪雪地。昔は、寺村の若い衆が命綱を取って高い開山堂の屋根に上り、一冬に何度となく雪下ろしをしていた。しかし時代の流れで茅葺屋根の雪下ろしができる若い衆がいなくなってきた・・・。そこで開山堂は↓こうなった。

平成11年に大雪から建物を守るための覆い屋根ができた。スッポリ覆い且つ下部を大空間にするためか鉄骨造だ。屋根は片流れでお堂の裏側に雪が落ちるようになっているようだ。

これには驚いた。一見した時には、せっかく趣のあるお堂なのに・・・と。でも、豪雪地での高い建物(茅葺)の保全にはしかたがないな。

開山堂には本堂の方から入れるようになってるが、本来の入口の上部欄間(?)に凄い彫刻が彫られていた。烏天狗が真ん中に。(トリミング)

その彫刻家、石川雲蝶は江戸生まれ。20代で江戸彫刻石川流の奥義を極め、幕府御用勤彫工として苗字帯刀を許される。30歳になった頃から越後に入り、39歳から約6年間かけて開山堂荘厳の制作に携わる。その後も数多の依頼がかかり越後の名匠に。明治16年、享年70歳で生涯を閉じる。(雲蝶の説明碑より)

石川雲蝶が仁王像を掘り上げている場面を再現した像もあった。


開山堂の左隣にある鐘楼は、開山堂と同時代の1850年に建立され、熊谷の小林源太郎作の彫刻が施されている。源太郎は雲蝶と並ぶ彫刻の名手で10歳近く年上。越後では運蝶の兄貴分だとか。

そろそろ堂内に移ろう・・・つづく。

 

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2 コメント

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Unknown (ディック)
2013-05-12 20:52:09
>建物を守るための覆い屋根…
やれやれ、こうなっちゃいますか…。
美的観点からはなんだかがっかりしてしまいますね。
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ディックさん こんばんは (KAEDE)
2013-05-18 23:32:12
ですよね~。豪雪地育ちの私ですが
こういうのは初めて見ました。
様々な要因があるのでしょうけど、このお寺の方としては
これが最善の方法だったのでしょう。
返信する

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