*J.M.シング原作「西の国のプレイボーイ」より 中野成樹誤意訳・演出 公式サイトはこちら 赤坂RED/THEATER 24日まで
今年の大きな収穫のひとつに中野成樹+フランケンズとの出会いがある(1,2,3)。何かを作ること、表現することにまじめさと一生懸命であることは必要だ。しかしそれが往々にして空回りしたり独りよがりだったりして、みる方にとって辛いことがある。フランケンズの場合、劇団結成から翻訳劇一筋に取り組んでいるという一見きまじめで硬質なところと、出来上がった舞台の何ともいえない軽やかさの混じり具合がとても魅力的なのだ。そうか、こういう読み方があったのか!とわくわくと嬉しくなるのである。まさに誤意訳の醍醐味であろう。
今回はアイルランドの劇作家シングの作品である。初演はちょうど100年前の1907年。父親殺しに端を発するブラックな喜劇というのか、内容がけしからんと非難する国家主義者によって公演中止の暴動が起こったりしたそうである。村はずれにある雑貨屋兼居酒屋が舞台。娘が一人で店番をしている。彼女の婚約者がやってくるが子どもっぽくておもしろみのない男である。父親が戻ってくるが、村の誰だかの通夜に出席して夜通し飲もうとしているらしく、留守番の娘は心細い。かといって婚約者に泊まってもらうのも気が進まず。そこへひとりの青年がふらりと入ってくる。見慣れぬ顔だ。聞けば彼は自分の父親を斧で殴り殺してきたという。静かで退屈な村に突如現れたヒーローに、娘も近所の未亡人もあっと言う間に夢中になってしまう。しかしほんとうは・・・・?
舞台美術がおもしろい。うちの壁がななめに切り込んであり、出入りする人々の姿が見えたり見えなかったりする。しかしその装置が「折りたたみ式」とでも言おうか、壁を倒して床にし、家の中をひろびろと見せる場面になったり、また閉じて今度は家のおもてを見せる作りになったり、一見シンプルなようで自在に変化する。奇抜な発想とそれを作り上げる技術に驚く。
終演後のポストパフォーマンストーク(ゲストは庭劇団ペニノのタニノクロウ)で、中野が「原作についてどこまで調べるかが課題になっている」と話していた。たとえばこの戯曲が書かれた時代背景や当時の歴史、風俗などである。「でもそれら以外に信じるところや惹かれるところがあるから、それを舞台にしたい」・・・だいたいこのようなことを話していたと記憶する。自分は、中野が「信じる」という言葉を使ったことに心が動かされた。原作を忠実に舞台化するのではなく、大胆に脚色する場合、必要なのは原作に対する敬意と、自分の創作に対する心意気であると思う。原作じたいにある魅力を信じ、それを自分たちの文法で読み解き、言葉を置き換え舞台化する。そこから生み出される新鮮なおもしろさがきっとある。それを彼は「信じている」のではなかろうかと。
今年の大きな収穫のひとつに中野成樹+フランケンズとの出会いがある(1,2,3)。何かを作ること、表現することにまじめさと一生懸命であることは必要だ。しかしそれが往々にして空回りしたり独りよがりだったりして、みる方にとって辛いことがある。フランケンズの場合、劇団結成から翻訳劇一筋に取り組んでいるという一見きまじめで硬質なところと、出来上がった舞台の何ともいえない軽やかさの混じり具合がとても魅力的なのだ。そうか、こういう読み方があったのか!とわくわくと嬉しくなるのである。まさに誤意訳の醍醐味であろう。
今回はアイルランドの劇作家シングの作品である。初演はちょうど100年前の1907年。父親殺しに端を発するブラックな喜劇というのか、内容がけしからんと非難する国家主義者によって公演中止の暴動が起こったりしたそうである。村はずれにある雑貨屋兼居酒屋が舞台。娘が一人で店番をしている。彼女の婚約者がやってくるが子どもっぽくておもしろみのない男である。父親が戻ってくるが、村の誰だかの通夜に出席して夜通し飲もうとしているらしく、留守番の娘は心細い。かといって婚約者に泊まってもらうのも気が進まず。そこへひとりの青年がふらりと入ってくる。見慣れぬ顔だ。聞けば彼は自分の父親を斧で殴り殺してきたという。静かで退屈な村に突如現れたヒーローに、娘も近所の未亡人もあっと言う間に夢中になってしまう。しかしほんとうは・・・・?
舞台美術がおもしろい。うちの壁がななめに切り込んであり、出入りする人々の姿が見えたり見えなかったりする。しかしその装置が「折りたたみ式」とでも言おうか、壁を倒して床にし、家の中をひろびろと見せる場面になったり、また閉じて今度は家のおもてを見せる作りになったり、一見シンプルなようで自在に変化する。奇抜な発想とそれを作り上げる技術に驚く。
終演後のポストパフォーマンストーク(ゲストは庭劇団ペニノのタニノクロウ)で、中野が「原作についてどこまで調べるかが課題になっている」と話していた。たとえばこの戯曲が書かれた時代背景や当時の歴史、風俗などである。「でもそれら以外に信じるところや惹かれるところがあるから、それを舞台にしたい」・・・だいたいこのようなことを話していたと記憶する。自分は、中野が「信じる」という言葉を使ったことに心が動かされた。原作を忠実に舞台化するのではなく、大胆に脚色する場合、必要なのは原作に対する敬意と、自分の創作に対する心意気であると思う。原作じたいにある魅力を信じ、それを自分たちの文法で読み解き、言葉を置き換え舞台化する。そこから生み出される新鮮なおもしろさがきっとある。それを彼は「信じている」のではなかろうかと。
原作者名ですが、「シリング」は誤記で、「シング」が正しい表記です。
原綴りはJohn Millington Synge (1871―1909)です。