因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座有志による自主企画公演 久保田万太郎の世界第11回

2014-09-08 | 舞台

*久保田万太郎作 黒木仁演出 公式サイトはこちら 文学座アトリエ 7日で終了
 これまでの記事(1,2,3,4) 参考までに同じく久保田万太郎作品を毎年上演しているみつわ会の記事はこちら→(1,2,3,4
 当日リーフレット掲載の黒木仁の「演出雑感」には、この会の発端である平成15年(2003年)の勉強会で『十三夜』と『蛍』を演目に選んだとある。筆者はたぶんこれをみたぞ。冬のたいへん寒い日に、改築前の「森や」に入るのはこれがはじめてで、普通のうちの玄関のようだった。それから10年間に上演された19作品の記録も記されていて、みたことのある演目を懐かしく思い出し、みのがしたものをあれこれ想像する。

 『冬ざれ』 昭和2年11月(1927年)「女性」に発表。作者36歳の作。
 どこかの田舎町、海のみえる宿の庭に女がふたり。どちらも東京の芸者だが、事情があってここにきた。その事情が明かされるような、問題が解決されるような、そのままのような。

 『釣堀にて』 昭和10年(1935年)「改造」に発表。作者44歳の作。
 晩秋の釣堀。いぜんから顔見知りの老人と青年。青年は問わず語りに家庭の複雑な事情を語りはじめた。黙って聞いている老人だが。
 この作品をみるのはこれで3度めになる。最初は1996年冬、大間知靖子演出、銀座みゆき館劇場であった。老人を演劇集団円の野村昇史、青年に同じく田原正浩が演じた。つぎは俳優座プロデュース公演で坂口芳貞が演出し、老人に俳優座の浜田寅彦、青年を文学座の浅野雅博。短い劇評を書いた。何度もみているせいか、好きな作品である。

 久保田万太郎作品には「よくしゃべる人物」と「それを聞かされている人物」の図がわりとある。前者は立て板に水の勢いでとどまるところを知らず、後者は「ええ」とか「はい」をいったい何度繰りかえすのか。
 それを聞くうちに、しゃべるほうを演じる俳優の演技がしだいに鼻についてくる。たとえば『一周忌』の前半に登場する保険勧誘員の男性である。あまり親しい間柄でもなさそうなのに、いっこうに腰を上げる様子がなく、ながながべらべらとしゃべっては相手をうんざりさせている・・・というより、観客までも彼のおしゃべりを一方的に聞かされている気分になってきて、人物だけでなく俳優にまでイラっとしてしまうのだ。そういう人物を演じているのだからと頭ではわかっていても、「自分の達者な芝居に酔ってるのじゃないか」といよいよ鼻についてくるのだ。
 演出意図があり、それによって俳優の演技になるわけで、申しわけないと思うのだけれど。

 しかしその演目のその人物がいつもそうでないことを体験したこともあり、俳優の演技だけにとらわれず、劇の世界をもっとおおらかに感じとろうと思うようになった。

 と言ったものの、今回の『釣堀にて』でしっくりしない感覚があった。前述の「しゃべるほう」の俳優の演技に違和感をもったためである。その人物のせりふによって劇の内容、彼や彼女の気持ちを知ることができ、その後の展開に興味をつなぐことができるのだが、そこまで大きな演技をしなくても伝わるのだがなあ…。その人物だけの演技というより、ぜんたいの演技の強度、バランス感覚の問題ではないだろうか。

 歯切れの悪い記事になったが、客席からわりあい距離をとった位置で演技が行われていることもあって圧迫感がなく、心身ゆったりと観劇できたことはたしか。髪を結って着物を着る。切れ味がよく、なのにしっとりと響くせりふ。「和」のお芝居から与えられる幸福感は、イキのいい若手の舞台をみる楽しみを、ときに凌駕する。もう日常生活では自分自身が行うことのない「和」のさまざまを、ここでなら味わうことができるのだ。
 演じる技術、心を大切な財産として継承し、上演を続けてほしいと強く願う。そしてこちらもまたじゅうぶんに味わうために必要な知識、柔軟な心をもち、考察を続けたい。

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