因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

新国立劇場『るつぼ』

2012-11-07 | 舞台

*アーサー・ミラー作 水谷八弥翻訳 宮田慶子演出 公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 18日まで
 休憩をはさんで上演は3時間45分と知ったときは正直たじろいだ。しかし初日が明けてから、ネットの感想では「まったく緩みがない」「長時間があっという間だった」との声があちこちから聞こえ、半信半疑で劇場に行ったのだが、ほんとうであった。よそごとや雑念の入る隙はなく、眠気にも襲われず、非常に重苦しく後味のよくない話であるにも関わらず、終演後はすっきりした心地よさで帰路につく。観劇前のあれこれはまったく杞憂であった。もし迷っておられる方があったら、ぜひご覧になってください。だいじょうぶです。

 ブログをはじめてからアーサー・ミラー作品観劇の記事は、複数の劇作家の再構成したものも含めてこちら→1,2,3
 それ以前にも劇団昴『セールスマンの死』、『プレイング・フォア・タイム』、劇団民藝『るつぼ』、『壊れたガラス』、『大司教の天井』、『橋からの眺め』・・・思ったより出会いの機会は多くあったのだ(ちなみに1998年因幡屋通信創刊号は、民藝の『るつぼ』第二幕冒頭について書いたのでした!)。このなかでは久米明がウィリー・ローマンを演じた『セールスマンの死』がもっとも強く心に残っているが、水谷八也の新訳による今回の『るつぼ』は、もしかするとこれまでみたミラー作品のなかのだんとつ、まだまだ続くが今年秋の演劇シーズンの最高になるかもしれないぞ。

 その理由は何だろうか。舞台美術は極限までそぎ落としたシンプルなものであり、俳優の扮装や髪型なども、その人の素顔を活かしたつくりである。ステージを張り出し舞台にして、客席を前方と左右の三方向から囲むかたちにしたところが通常と異なるところではあるが、ぜんたいに地味で堅実な演出であり、ことさら観客が驚くような仕掛けや趣向はない。なのに心を打つ。いや観客の心をとらえるのは仕掛けや趣向ではないのだ。

 少し長くなるが、本公演パンフレット掲載の今村忠純の寄稿「『新訳』の思想」を引用する。
「戯曲の翻訳家は(劇作家がそうであるように)演出家(のもつ)感覚をそなえている。そして戯曲の翻訳家のうち、この演出(家)感覚の持ち主こそが、劇的言語の「息づかい」を「翻訳」する特権がある。翻訳家と演出家の共有するこの「息づかい」こそが、「新訳」として演劇現場(稽古場)にもたらされるのではないか」

 今回の上演は、今村氏が的確に論じておられる劇的言語の息づかいの共有がみごとになされたことを証するものではなかろうか。そこに俳優の演技が加わって、さらに素晴らしい舞台成果をあげることができたのだ。

 『るつぼ』はジョン・プロクターとアビゲイルの不倫を軸に、男女の性愛やセクシュアルな面が強調されることが多い。公演チラシにはプロクター役のつぎにアビゲイル役の女優の顔写真が掲載され、さまざまな宣伝媒体も同様である。抑圧された世界で暴走してしまった不倫関係が発端で、それがここまでの大騒動になったかが物語のひとつの核であることはたしかである。しかし自分は本作はジョン・プロクターとその妻エリザベスが不信に苦しんだのち、最後に和解にたどりつく夫婦の話だと思うのだが。

 忘れないように書いておくと、物語では告発された者は、悪魔との関わりを認めると許されて、それを認めないと絞首刑になる。実はこの「しくみ」が理解できないのだ。悪魔と契約をしたのは「良くないこと」であり、それを行ったという人間が処罰されるのならまだわかる。
 また「自分は悪魔と契約をしました」との証言は嘘であり、「偽証してはならない」という十戒、神の教えに背くことになり、しかし嘘をつかず信念を貫きとおせば処刑される。人間の営む法廷は何を規範とし、人々をどうしたいのか。いったん疑われたら最後なのが「魔女裁判」ということなのだろうか。

 ジョンを池内博之、エリザベスを栗田桃子が演じた。戯曲の指定に近い、若手の登用である。ふたりとも大変よかった。とくにエリザベスは辛抱強い演技が要求されるむずかしい役どころだ。悪魔に魂を売ったと嘘の告白して署名をすれば絞首刑は免れる。しかし最後の最後になって、それを拒んで死を選ぶ夫を見送り、祈りを捧げる妻というものを理解することはむずかしい。「魂は渡した、名前は残してくれ」と懇願して殉教してゆくプロクターの言わんとしていることもまた同様である。
 しかし池内と栗田、もうひとり加えるとヘイル牧師を演じた浅野雅博をみていると、俳優は戯曲に書かれたことを観客に説明し、理解させるためだけに存在するのではないことがだんだんにわかってくる。俳優もまた、今村氏の指摘される「息づかい」を共有するものであり、その共有のさまが伝わるとき、戯曲はたしかな手ごたえをもって観客の心を打つのである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『中村伸郎とメリーさんの羊』 | トップ | 架空の劇団×渡辺源四郎商店合... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事