因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

架空の劇団×渡辺源四郎商店合同公演『震災タクシー』

2012-11-09 | 舞台

*くらもちひろゆき、畑澤聖悟、工藤千夏作・演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 11日まで 
 架空の劇団渡辺源四郎商店(通称なべげん)の合同公演で、9月に青森/アトリエ・グリーンパークで幕を開け、愛知の長久手文化の家風のホール、岩手/盛岡劇場タウンホールを経て、東京/こまばアゴラ劇場、来月の福島/いわき芸術文化交流館アリオス小劇場を巡演する。
 くらもちひろゆき作品は、昨年9月の『瓦礫と菓子パン~リストランテ震災篇』が記憶に新しい・・・と言うべきなのだが、震災から半年のあのときと、それからさらに一年以上が過ぎた今ではどこかもう遠い感覚があるのだった。畑澤聖悟作品では『どんとゆけ』、『親の顔が見たい』(ブログ記事なし)、12月は劇団民藝の『満天の桜』を観劇予定。
 『震災タクシー』は、昨年の3月11日、仕事の打ち合わせで仙台から福島のいわきへ向かう常磐線の車中で地震にあい、電車が動かないためにタクシーの相乗りを呼びかけて見知らぬ人たちと過ごしたくらもち自身の数時間の体験が基になっている。カーテンコールでの畑澤の挨拶によれば、くらもちがベースを書き、工藤千夏が書き直して、最終的には畑澤が仕上げたとのことだ。

 舞台は袖も奥も黒い幕が下がり、開演が近づくとくらもちが椅子をひとつずつ運びはじめる。強い揺れ、しかし電車のなかなのであまり実感はない。いつごろ運転を再開するのかなどなど、畑澤演じる車掌さんとの珍問答もあって、どこかのんびりしている。手前の駅まで引き返し、そこでタクシーを1台つかまえて、同じく移動の足がなくなった周囲の人々にいわきまでの合い乗りを呼びかけると、ひとりまたひとりと希望者が現れ、男性2名、女性1名、小学生の女の子1名の珍道中が始まった。

 くらもちは岩手県の内陸部の盛岡在住であり、津波の被害にはあっていない。畑澤が住む青森県は被災3県に入っていない。二つ折りのりっぱな公演チラシに、くらもち、工藤、畑澤の座談が掲載されており、東北に住んでいながら沿岸部のように甚大な被害にあわず、「盛岡で自分を被災者だと思っている人はいないんじゃないかな」というくらもちの発言に象徴される複雑な立場の東北人による震災のドキュメンタリー風の演劇である。

 同乗した人々の会話はテンポよく、たいへんおもしろい。通行止めによる迂回などのアクシデントはあるものの悲壮感がなく、ほとんどコメディである。途中、福島第一原発を遠くにみる場面があり、そこでも「世界有数の安全な原発だからだいじょうぶでしょう」と話す。しかしそのなかで小学生の女の子が、座敷わらしならぬ「タクシーわらし」のような風情をみせる場面では、「ひょっとしてこの子は・・・」と観客にさまざまなことを考えさせる。

 いわきでの所用がキャンセルになり、仙台を通って盛岡のわが家に帰ったくらもちは妻と娘に迎えられ、停電はしているものの温かな食事と冷えたビールを味わう。ここでも大震災の深刻な被害は描かれていない。「だって盛岡だもの」。妻子の台詞が印象的だ。タクシーに乗っているあいだもときおり現れるメロス(畑澤)が、ラストシーンもまだ走っている。進まない復興に怒りながら走り続けなければならない被災者を象徴するようでもあり、直接の被害にあっていないうしろめたさを抱えながら走り続けるしかないくらもち自身のようでもある。

 自分が震災当日に体験したこと、それもめったに味わうことのない実に貴重で特別な体験をベースにしている点で、本作は現実に根ざした強さがある。その一方で、「自分を被災者とは思っていない」というみずからの複雑な立ち位置を示すことによって、「東北3県」「被災者」とひとくくりにできない現実が伝わってくる。あまりに強烈な実情、現実に対するプロの演劇人の意地や心意気が、したたかな作劇術や、相手(甚大な被害にあった方々)への思いなど、さまざまな要素が溶け合って結実した舞台だ。

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