因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

楽園王創立25周年記念公演 『楽屋』

2016-06-10 | 舞台

*清水邦夫作 長堀博士演出 公式サイトはこちら サブテレニアン 12日で終了
 『楽屋』をはじめてみたのは、1992年夏、群馬県前橋市での「とろんぷるいゆ」旗揚げ公演であった。その後、1998年9月、ベニサン・ピットでのT.P.Tフューチャーズプログラムより鈴木裕美演出の舞台、もっとも近い観劇では、2009年6月上演の海千山千プロデュース、西沢栄治演出の『楽屋』がある。今年の5月には梅ヶ丘BOXにおいて、18の劇団が競演する「楽屋フェスティバル」が開催され、とろんぷるいゆが参戦している。これを見のがしたのは非常に残念であった。

 さて楽園王は、これまでさまざまな公演の折込のなかに何度もチラシを目にしてきたが、あとひと息観劇のアクションを起こせなかった。何らかの理由があって避けたり保留にしているわけではなく、おそらくべつの公演と期間が重なっていたりして、機会を逃していたのだろう。今年で創立25周年の今年は「祝祭」の意味と、次への「布石」として、合計8本の上演を予定しているという(サブテレニアンの10周年記念月間公演リーフレットより)から、これはすごい。

 舞台における音楽は非常に重要であり、ときに舞台そのものよりも強い印象を観客に与えることがある。たとえば新感線では開演直前に、あのビートの効いたおなじみの曲がおなかの底にずしんと響くような音量で流れる。これを聴くと、「いよいよはじまる」と観劇前の気分はますます高揚する。カーテンコールも非常に盛り上がり、何度もアンコールののち、「もうそろそろお開きかな?」と感じるあたりで、テンポの良いエンディングの曲で幕となる。選曲のセンス、タイミングなどの使い方、いずれも巧みである。
 サブテレニアンは床も壁も黒く、喧噪よりも沈黙が似合う空間である。今回客席は舞台に向かって2列のみ、いつにも増して鎮まりかえっている。テーブルに椅子、洋服掛け、鏡を思わせる白い枠がいくつか置かれただけの舞台には、「演じる」ことに憑りつかれた女優たちの登場を不気味なまでの静けさで待ち構えている。客席も息をひそめざるを得ない空気だ。

 と、そこにサイモン&ガーファンクルの「冬の散歩道」が流れ、劇場上手の壁には出演女優たちの顔が次々に映し出される。この「冬の散歩道」を聴くと、TBSドラマ『人間・失格』がすぐに思い浮かぶ。子どものいじめや自殺などがこれでもかというくらい陰惨に描かれたドラマにはなじめなかったが、激しく狂おしい感情のたぎりを懸命に歌っているこの曲には好ましい印象がある。それをまさか楽園王、『楽屋』で聴くとは。

 意外なオープニングであったが、これからはじまる舞台への期待が一気に高まり、1時間30分を集中して観劇するのに、非常に効果的であった。演出の長堀博士は「言葉の意味や内容より“音”に注目し、様式美にこだわった作品作りをする」とのこと(上記リーフレット)。さらに『楽屋』は、当初2011年春に上演を予定していたが、3月11日の東日本大震災で、「この時期は演劇の時期ではない」と判断して中止にしたいきさつがある。「中止を余儀なくされた」のではなく、増して、「こんなときだからこそ演劇ではないか」と多くの演劇人が奮い立ったあの時期に、「そうではない」と判断した長堀の良識と感覚を、もっと知りたいと思う。

 『楽屋』は、『かもめ』の楽屋が舞台である。四十を過ぎてニーナ役を演じる女優の楽屋に、その他大勢役しかできずに生涯を閉じたふたりの女優の幽霊が棲みついている。そこへ病気で降板した女優が「ニーナ役を返して」と枕を抱えて現れる。生きている女優、死にそうな女優、死んでしまった女優が三つ巴に繰り広げる「業」の物語である。華やかで自由と見える女優の世界の裏の裏、嫉妬や羨望、諦めなどが生々しく息づく本作は、時代は変わっても俳優という職業のある面の普遍性を描いており、なかなか「イタイ」物語だ。同業者はもちろんのこと、演劇に限らず仕事をする、生きていくうえで、志や希望がじゅうぶんにかなう人はごくわずかであるからである。

 「枕」の女優も病院で息を引き取ったらしく、霊魂として楽屋を再訪する。主役を演じられなかった女優たち3人が、『三人姉妹』の終幕の台詞を言う場面。台詞の「音」の面にこだわる長堀は、長女オリガの台詞を3女優の割り台詞に構成した。朗々と発せられる台詞ではなく、少しずつ重なったりずれたりしながら続く台詞は、目の前にいる3人だけでない、この台詞を言えなかった古今東西あまたの女優たちから発せられるようであった。

 暗転してカーテンコール。ここで再び「冬の散歩道」が流れる。何というか、「やられた」感覚である。この爽快な気分は何だろう?生きている女優は年齢に合わない若作りを嘲笑されようと、ニーナ役にしがみつくだろう。そして魂となった3人の女優たちは、生きている女優に小さないたずらをしかけつつ、死んでも生きつづけるであろう。みじめというより、むしろ天晴ではないか。清々しい心持ちの帰り道、楽園王デヴューが嬉しい一夜であった。

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