*高木登作 寺十吾(tsumazuki no ishi)演出 公式サイトはこちら サンモールスタジオ 18日で終了(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18)
再演のチラシや当日リーフレットに記された高木の言葉を読み、改めて2016年5月の初演のブログ記事を読み返す。劇場は下北沢駅前劇場からさらに小さいサンモールスタジオに移り、初日から満席売り止めの回が続出、昼の部に入れなかった当日券の観客が夜の部に再挑戦したなど、初演を見た人は「ぜひもう一度」、見ていない人は「ぜひ一度は」と劇場へ足を運んだ。通路には隙間なく当日券の観客が入場し、これから始まる呪われた一族の壮絶な愛憎劇を待ち受ける。もう逃げられない。
高木は本作の中心にあるのは「若さ」であり、再演をしたかったのは、物語の中心になる3人の俳優が素晴らしかったから、彼らがこの役を演じられるうちに再演しておきたかったからだと記す。彼らとは、製薬会社を営む美樹本家の長女が生んだ3人の子どもたち長男謙人役の祁答院雄貴、長女一季役の秋月三佳、次女佐季役の福永マリカである。
劇作家をして、「彼ら以外にこの役を演じる若者をすがたが、いまだに像を結ばずにいます」、「再演のモチベーションはありましたが、再々演のモチベーションがさほどないのはそのためです」とまで言わしめた3人の若い俳優は、その期待に十分応え、飄々とした中に底知れぬ悲しみを湛えているであろう権人、一族のなかでもっとも常識があるだけにいっそう苦しむ一季、破壊的人格と見せて決して狂人ではない佐季を演じきった。
絶望した一季が家にガソリンを撒いて火を放つ終盤は、さすがに京アニの事件が想起された。しかしあれほど惨たらしい現実の出来事であっても、それによって現実に揺り戻されそうな観客を「最後まで見届けろ」と劇場に引き戻すすさまじい力が本作にはある。
一季と佐季が携帯電話で話すラストシーンは、客席に衝撃と戦慄を与える。それは「ここまで残虐なことをするのか」という信じがたい気持ちであり、しかしそれが佐季に対する怒りに転じず、ほとんど天晴と言いたくなるほどの爽快感がある。観客にもまた、行動として表出しないだけで、言葉にし難い憎悪が巣食うことを思い知らされるのは決して愉快ではない。しかしあの爽快感は、自分の代わりに彼らが人間の憎しみを見せてくれた、汚れたすがたを晒してくれたことから生まれるのではないか。
一族の中で、もっとも共感を得にくい人物は末っ子の佐季である。煮ても焼いても食えぬどころか、劇薬、危険物として遠ざけておかねばこちらの命が危ない。しかし再演の舞台から新たに得たのは、この怪物のような少女が、どうしても生きたかったのだという実感であった。姉の一季は妹を殺そうと火を放った。しかし妹のほうが何枚もうわてで、姉の計画を打ち破る。家族を殺して自分も死のうとしていた姉は、妹を見つけ出すまで死ねなくなった。こうして姉と妹は互いを救い合ったのである。妹は、どうしても姉を死なせたくなかった。それは姉がいなければ自分もまた生きられないからである。姉は妹を見つけ出し、殺すことが人生最大、唯一の目的となった。そして妹はどこまでも逃げ抜くであろう。こうして姉妹はこの世を生き抜いていく。このあまりに捩じくれた暴力的な愛の様相を体験するのも、これが最後なのだ。もうあの3人には会えない。初演の爽快感は微妙な寂寥感となって、帰路の足元に纏いついた。
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