因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

鵺的第八回公演『毒婦二景』Aプロ『定や、定』

2014-06-15 | 舞台

*高木登作・演出 公式サイトはこちら 下北沢小劇場楽園 Bプロ『昭和十一年五月十八日の犯罪』と交互上演 23日まで (1,2,3,4,5,6,7,8,9
 ハマカワフミエのBプロの熱気冷めやらぬまま、岡田あがさが定を演じるAプロ『定や、定』に行く。例の事件(Wikipedia)そのものが強力な磁場であるBプロに対して、Aプロでは事件は一部分にすぎない。17歳の定は、親の金を持ちだしては浅草で遊び歩き、男出入りの絶えない不良であった。あげくもてあました親に遠縁でもある女衒に売り払われる。本業の木彫り師のかたわら女衒をし、しかも定とは遠縁にあたる宇野正直(寺十吾)は、まだ十代の定に男女のあれこれを教え込み、その手の店へ口利きをしたり、事件後は親身に世話をしたりなど、定と濃厚な交わりをもつ。親子のような愛人のような、腐れ縁と言い捨てるには興味を掻きたてるふたりの数十年間を70分で一気にみせる。

 実際に起こった事件をモチーフにする劇作家は少なくない。ただ事件の扱い方、事象そのものへの距離の取り方にちがいがあらわれる。事件と作家とのバランスと言おうか。事件そのものが強く表出するパラドックス定数の野木萌葱、劇団チョコレートケーキの古川健。「この事件にこだわる私」にこだわるミナモザの瀬戸山美咲。
 高木登の場合、強烈な事件や事象へ鋭く切り込みながら、その切っ先は高木自身の内部に容赦なく向かう。ある対象を描きながら、そこに作り手自身の心象があぶり出されるのは当然のこととはいえ、高木による鵺的の舞台からは、自分自身に対する疑いや苦悩、葛藤などが強く迫ってくる。なかでも自身の親族を描いた『荒野1/7』は、それまでの作品で保っていた事件事象と自己のバランスを敢えて崩すことに挑んだとして、非常に作家性の強い舞台であると考える。

 今回の阿部定2本立て公演の企画が生まれたのは、ハマカワフミエが「定を演じたい」と言ったこと、岡田あがさが「阿部定という女性が好きだ」と言ったことがきっかけとのこと。つまり俳優の「演じたい」欲求から生まれた舞台である点に注目したい。とくにAプロは岡田と寺十のふたり芝居であると同時に、寺十演じる女衒の宇野が狂言まわしの役割ももち、俳優の存在が強く出る。俳優の個性、力量で牽引していく舞台なのだ。

 またふたりの黒衣が登場し、場面転換や小道具の受け渡し、時代背景や流れを大きな白い幕で示したりなど、これまでみることがほとんどなかったと自分には思われる高木の劇作家、演出家としての遊び心、サービス精神、エンターテインメント性も披露されている。
 しかしBプロを先にみてしまうと、ややぎくしゃくしたところがあってじゅうぶんに味わえなかったことが残念だ。定、宇野ともに「てんぱっている」印象で、それが舞台の勢いになればよいのだが。少し鎮まって一つひとつの台詞、動作、互いの呼吸を確認し、より精度の高い舞台になるように願っている。

 ふたつのプログラムの交互上演とは、作り手にとっては大変な労苦があることだろう。それぞれに個性が強く、手のかかるふたごの子どもを育てるようなものではなかろうか。ふたり分の子育ては何しろ大変だ、しかしどちらも可愛くて楽しみなわが子。労苦を上まわる喜びがあるはず。それを客席から喜びたい。

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