草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

第三の精神的敗戦を予感し死を選んだ江藤淳!

2013年05月18日 | 思想家

 私たち日本人は父親や祖父が冒涜されても、沈黙をすべきなのだろうか。入江孝則は『衰亡か再生か岐路に立つ日本』において、平成11年7月21日の江藤淳の自決について「国家の全的滅亡を予見した」と論評した。入江は大東亜戦争での敗北を第一の敗戦と呼び、冷戦の終結を第二の敗戦と呼んだ。第一は軍事的、第二は経済的な面での敗戦であった。そして、これから起きようとしているのが第三の敗戦であり、精神的敗北だという。江藤はそれを熟知していたから、自ら死を選んだというのである。公的なものの崩壊を前にして、滅びることを厭わなかったのである。日本は第三の敗戦を体験しつつあるのではないだろうか。日本国内では国家を冒涜する者たちが大声を上げ、海外の反日勢力と組んで、保守派を狙い撃ちにしている。国民は一致してそれらを駆逐すべきであるのに、そこまでの危機感はない。江藤は『南洲残影』で「人間には、あるいは未来予知の能力はないのかも知れない。しかし国の滅亡を予感する能力は与えられているのではないか」と書いていた。入江はそのことにこだわったのだ。江藤が拠り所とした日本が滅亡する予兆を聞きながら、自らの身を処したのである。間違っても個人的な死ではなかった。江藤がかすかに耳にしていた崩壊の音は、徐々に大きくなってきており、「国家の全的滅亡」は目前に迫っているのではないか。

 

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今後も嫌がらせ続けば反米政権が日本に誕生するだろう!

2013年05月18日 | 思想家

 「日本人が、自由世界の異邦人として、歴史のうえで似合わない役割をぎこちなく果たしてゆくことは、日本人として愉快なことではない」(『限界状況としての日本』)と書いたのは武藤光朗であった。今から40年近く前のことであった。そこで強調したかったのは、日本の役割として「工業化された西欧社会と工業化されていない非西欧化社会との間のギャップの橋渡し」となることであった。しかし、それが可能となるためには「ぎりぎりのところ、大陸アジアの全体主義国家の軍事的脅威からその安全が保障されていなければならず、その安全保障は当面、核をふくむアメリカの軍事的抑止力に期待するしかない」というのが武藤の考え方であった。今になってみると、それは幻想でしかなかった。中共が侵略者として日本の前に立ち現われているのに、アメリカは傍観者となっている。さらに、日本と韓国の間にに生じている歴史認識の問題では、強固な絆で結ばれていたはずの日本ではなく、より韓国の側にシフトしている。武藤が考えていたような前提が、崩れつつあるのだ。日米同盟に日本人は疑問を持ち始めている。今後も嫌がらせが続けば、日本により反米的な政権が誕生し、独自の核開発も日程の上ってくるだろう。アメリカはそれで本当によいのだろうか。これまで健気に振る舞ってきたのは、あくまでも日本人が自己抑制してきただけであり、アメリカは甘く見るべきではない。

 

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