私たち日本人は父親や祖父が冒涜されても、沈黙をすべきなのだろうか。入江孝則は『衰亡か再生か岐路に立つ日本』において、平成11年7月21日の江藤淳の自決について「国家の全的滅亡を予見した」と論評した。入江は大東亜戦争での敗北を第一の敗戦と呼び、冷戦の終結を第二の敗戦と呼んだ。第一は軍事的、第二は経済的な面での敗戦であった。そして、これから起きようとしているのが第三の敗戦であり、精神的敗北だという。江藤はそれを熟知していたから、自ら死を選んだというのである。公的なものの崩壊を前にして、滅びることを厭わなかったのである。日本は第三の敗戦を体験しつつあるのではないだろうか。日本国内では国家を冒涜する者たちが大声を上げ、海外の反日勢力と組んで、保守派を狙い撃ちにしている。国民は一致してそれらを駆逐すべきであるのに、そこまでの危機感はない。江藤は『南洲残影』で「人間には、あるいは未来予知の能力はないのかも知れない。しかし国の滅亡を予感する能力は与えられているのではないか」と書いていた。入江はそのことにこだわったのだ。江藤が拠り所とした日本が滅亡する予兆を聞きながら、自らの身を処したのである。間違っても個人的な死ではなかった。江藤がかすかに耳にしていた崩壊の音は、徐々に大きくなってきており、「国家の全的滅亡」は目前に迫っているのではないか。
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