憲法などともったいぶった言い方をするから、かえって混乱してしまうのである。コンスティテューションという言葉は、本来は構成を意味するといわれ、むしろ国体と訳した方が的を射ている。村松剛は、『歴史に学ぶ 激動期を生きた人々』において、フランスでは「動物や植物の構造と存在の物理的形態をコンスティテューションと呼ぶように、あるひとつの社会のきわだった存在と相貌とを付与する法律群を、法的コンスティテューションとなづける」というのを例に引きながら、「要はきわだった相貌だから、たしかに国体といった方が正確に近い」と書いている。日本では曾沢正志齊か『新論』で流行させたといわれるが、幕末期は多くの人の心を捉えたのだった。それは尊攘派の志士にとどまらなかった。会津もまた一緒であった。欧米列強の威嚇に対して当時の日本人は、村松が指摘するように「産業革命が生んだ新兵器に対抗して、日本人は自分たちの生き方を守らねばならなかった。個人としての生き方の集大成が、一社会の相貌となる。すなわち、国体である」と理解していた。そして、「国体」を守れなくなった段階で、幕府はすでに敗北をしていたのである。大東亜戦争の敗北のときも、日本人がこだわったのは、「国体」の護持であった。それを破壊する目的で「日本という社会の相貌、構成とは無関係に、一握りのアメリカ人の思想と好みにかなった法律」が現在の日本国憲法なのである。それをどうして肯定できよう。
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