草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

日本社会の相貌としての「国体」を無視したのが現憲法だ!

2013年05月03日 | 思想家

 憲法などともったいぶった言い方をするから、かえって混乱してしまうのである。コンスティテューションという言葉は、本来は構成を意味するといわれ、むしろ国体と訳した方が的を射ている。村松剛は、『歴史に学ぶ 激動期を生きた人々』において、フランスでは「動物や植物の構造と存在の物理的形態をコンスティテューションと呼ぶように、あるひとつの社会のきわだった存在と相貌とを付与する法律群を、法的コンスティテューションとなづける」というのを例に引きながら、「要はきわだった相貌だから、たしかに国体といった方が正確に近い」と書いている。日本では曾沢正志齊か『新論』で流行させたといわれるが、幕末期は多くの人の心を捉えたのだった。それは尊攘派の志士にとどまらなかった。会津もまた一緒であった。欧米列強の威嚇に対して当時の日本人は、村松が指摘するように「産業革命が生んだ新兵器に対抗して、日本人は自分たちの生き方を守らねばならなかった。個人としての生き方の集大成が、一社会の相貌となる。すなわち、国体である」と理解していた。そして、「国体」を守れなくなった段階で、幕府はすでに敗北をしていたのである。大東亜戦争の敗北のときも、日本人がこだわったのは、「国体」の護持であった。それを破壊する目的で「日本という社会の相貌、構成とは無関係に、一握りのアメリカ人の思想と好みにかなった法律」が現在の日本国憲法なのである。それをどうして肯定できよう。

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憲法以前に「日本には、決してかえてはならないこと」がある!

2013年05月03日 | 政局

 今日の朝日の社説「憲法を考えるー変えていいこと、ならぬこと」の出だしは「憲法には、決して変えてはならないことがある」だが、それを言うのならば「日本には、決して変えてはならないことがある」ではないだろうか。せいぜい中学校で教える程度の憲法観で、国民主権、基本的人権、平和主義を並べ立てているだけである。国民主権に関しては、現憲法でも第一条は、象徴天皇制であり、整合性はどうなるのだろう。また、基本的人権は、自由をどう考えるかに帰着するが、「権力に勝手なことをさせない縛りをかける最高法規」との憲法の定義は、明らかに間違っている。憲法が国家の存在を肯定する以上、「民主政治は一般国民をして国家統治に参加せしめて国家統治の目的を実現する一つの国家統治形式である」(大石憲法研究所編『増補法学概論』)とすれば、「一般国民が国家意思成立の過程に参加すること」(同)であり、決定いかんによっては、国民生活への干渉もありうる。重要なのは「国民はその真意に基づいて法の制定に参加するという」(同)ことなのである。平和主義については、マキアヴェッリの「国家は、軍事力なしには存続不可能である」との言葉を噛みしめるべきだろう。いずれにせよ、占領憲法があって国家国民があるのではない。決して変えてはならない、日本の歴史的伝統精神を踏まえるべきなのであり、現憲法が問題なのは、それを否定しているからなのである。

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