草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

日本に異民族問題はないと言い切っていた三島由紀夫!

2013年05月22日 | 思想家

 三島由紀夫は在日朝鮮人問題についても、『文化防衛論』において論じていた。「戦後の日本にとっては、真の異民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であリフュジーの問題であっても、日本国民内部の問題ではありえない。これを内部の問題であるかの如く扱う一部の扱いには、明らかに政治的意図があって、先進工業国における革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない」。共産主義者が革命を起こすにあたって、別働隊として利用される可能性に触れていたのだ。しかし、その一方で三島は、今の時代を予言していた。それが1968年に起きた金嬉老事件へのコメントである。殺人犯であった在日二世の金が自分を正当化するために、在日朝鮮・韓国人への差別を取り上げ、それをマスコミが大々的に報道したのだった。金は韓国の英雄にまで祭り上げられたのである。日本人を加害者に仕立て上げることで、謝罪や賠償を求める。それが当然視する風潮が生まれたのだ。そのときに人質になった日本人を、平和的にしか日本国家は救出できなかった。武力を行使する手段を持ち合わせないために、その暴力に対抗するすべがなかったのである。韓国が世界中を味方に付けて、日本を孤立させようとしている「慰安婦問題」も、韓国人の女性を「性奴隷」にしたかのようは言い方がまかり通っている。このまま日本が国家として反撃しなければ、日本人は立つ瀬がなくなる。その意味では「革命主体の異民族」以上に、在日朝鮮人問題は日本にとって深刻なのである。

政治 ブログランキングへ

 

                 ←日本は言論戦で反撃すべきだと思う方はクリックを

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

にほんブログ村   blogramで人気ブログを分析

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国家の根本を支えるのはノモス(社会生活上の道徳観念)だ!

2013年05月22日 | 思想家

 国家の定義について様々な議論があるが、主権者が市民ではなく国民であるのは、重要な意味がある。それぞれの国家には、それぞれの文化的な伝統や信仰があり、それをベースにしているからだ。民主主義の制度を採用していても、多数決が原則であるにしても、一定の方向付けは、成文法以前に存在するのである。それがノモス(社会生活上の道徳)である。今後の日本における憲法改正論議でも、それが中心になるべきだろう。田中美知太郎は「政治哲学の古典的形態」においてその点を論じていたが、『古代都市』の著者フュステル・ド・クラーンジュが語ったことを重視する。「かくも多岐に分れ、かくも自由奔放にして、かくも常なき、これら人間存在の間に社会的な結びつきを固定させることは、容易なことではないのである。かれらに共通の規則を与え命令を出して服従承諾をさせるのには、また感情を理性に譲歩させ、個人的な理由を公の大義に服させるのには、物力よりも更に強く、利害よりも更に尊く、哲学上の理論よりももっと頼りになり、規約よりももっと恒久的な何ものかがなければならないことは間違いない。それはあらゆる人の心の底にひとしく根をおろし、絶大の支配力をもって君臨するものでなければならない。この何かとは、まさに信仰なのである」。人間が暴走しないためにも、あらかじめ決まりが定まっているのである。それは時代を超えて私たちに呼びかける声であり、信仰なのである。まずはそれに耳を傾けるべきだろう。

政治 ブログランキングへ

 

                 ←ノモス国家論が見直されるべきと思う方はクリックを

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ

にほんブログ村   blogramで人気ブログを分析

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする