ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

竹藪の中に道標-窪田地区の旧道分かれ道に

2018年06月27日 06時08分15秒 | Weblog
 

 

 26日(火)、加東市窪田地区の竹藪の中に道標があるので見に来ないか、という連絡をいただき、県庁からの帰りにわくわくしながら向かいました。
 千鳥川に架かる平安橋から左岸の堤防を数十メートル下流に歩き、堤防下の田圃へ下りる細い道を歩いていくと、上り坂にさしかかったところで道は左右に分かれ、正面に竹藪がありました。
 知人が「あの竹の下」と指さす先に道標の上部が見えました。竹薮の草を刈ったら出てきた、ということでしたが、案内してくれた知人は以前から存在を知っていたらしいのですが、地区の人でも知らない人が多いということでした。
 草をかきわけて見てみると、正面には「右 をの□□・・ たかさご□□・・・」左側面には「左 やしろ□□・・・」、右側面には「すぐ 志んま□□・・・」と刻まれていました。分かれ道の右に行けば、加古川下流の小野、高砂方面、左に行けば、窪田、社方面ということになり、小野・高砂方面から来ると直進すれば新町方面ということでしょう。下部が地中に埋もれて全体をつかむことができませんでしたが、まだ下に字があるのではという感じでした。
 昔のことをよくご存知の地区の方も来られ、この道は旧道で、堤防ができる前は北側を流れる千鳥側の対岸の穂積地区に通じる板橋があり、さらに北野、新町へと通じていたと教えていただきました。以前に対岸の穂積の八幡神社の境内にある大きな道標をこの歴史ブログで紹介したことがありますが、昔はこの道が加古川左岸を高砂まで通じる大事な道だったのではないでしょうか。
 さらに幕末に起こった加古川筋一揆もこの道を下ったのではないか、と話しておられました。市内各地に道標がありますが、圃場整備や道路改良などで元に場所から移されたものが少なくない中、旧道の、しかもまさに分かれ道に立つ道標。少しは動かされたかもしれませんが、ほぼこの場所に建てられたものでしょう。建立年や建立者はわかりませんが、貴重な歴史遺物です。よく今日まで遺っていたものです。大切に保存し、未来に伝えていきたいものです。
コメント
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