メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ダロウェイ夫人

2007-07-06 23:12:19 | 映画
「ダロウェイ夫人」(Mrs. Dalloway、1997年、英・蘭、97分)
監督:マルレーン・ゴリス、原作:ヴァージニア・ウルフ、脚本:アイリーン・アトキンス
ヴァネッサ・レッドグレーヴ、ナターシャ・マイケルホーン、マイケル・キッチン、アラン・コックス、サラ・バデル、レナ・へディ、ジョン・スタンディング、ロバートポータル、オリヴァー・フォード・デイヴィス、ハル・クルッテンデン、ルパート・グレイブス
 
1923年6月、ロンドン上流階級のクラリッサ・ダロウェイが朝から準備を始めたパーティが終わるまで、一日の物語である。
彼女は政治家の妻で、夫があらわれる前に親しくもしかしたら一緒になったかもしれないピーターがちょうどインドから帰ってきて昼間会いに来る。映画では若き日の回想シーンと現在がかさなり、二人とも動揺する。
そしてパーティが始まり、そこに集う若き日の登場人物たち。
 
いかにもイギリスらしいしつらえであるが、そんなにドラマとしての起伏があるわけではない。あるとしてもそれは内心のつぶやきであり、それをどう見るものに伝えるかが、この映画作りの腕である。工夫はわかるし、だからクラリッサの心の動きも理解は出来るが、それでも新鮮というにはちょっと足りない。
 
そう、今の夫とクラリッサを争ったピーターの野望と世の中を批評できる眼、しかしそれは財産も未来もあり人はいいがあまり気のきかない不器用なダロウェイには結局勝てない。女性は結局ダロウェイを選ぶ、話の先は見えている。世の中の男だって少し歳をとればそれは理解できるのだ、ヴァージニア・ウルフはそうでないと思っていただろうが。
 
原作にあるのかどうかはわからないが、大戦中の1998年イタリア戦線で注意が足りず同僚を死なせてしまった(と思っている?)戦争神経症の若者とその妻が併行して描かれる。不思議に思っていると、パーティ会場で人のつながりがあることが明かされるけれど、このあまり長くない映画の中ではバランス的に不自然である。おそらくその悔恨をクラリッサの心情に重ねることを意図したのであろうが、必要なものだったか。
クラリッサはヴァネッサ・レッドグレーヴ、このときほぼ60歳だからこの「ジュリア」(1977)の闘士も、自信無げな初老の女性にフィットしている。それでも真っ直ぐこちらを向いて眼を開き口角を少しあげて微笑すると、これはジュリアのときの強さを思いださせてしまう。だから悪いというのではないのだが。
 
他の協演者は知らない人たちだが、せめて相手の男二人にはもう少し身長が欲しかった。
往時ロンドンの情景、風俗、特に服装は眼にいい。
 
この原作(翻訳)を以前読もうとしたが、しばらくして読み進められなくなった。朝からの準備とクラリッサの思い出、内心の描写が、何故かフィットしなかったのだ。映画より評価が高いこれを読む機会はも少し後に取っておこう。
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