メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ミラノ 霧の風景 (須賀敦子)

2009-10-31 17:54:38 | 本と雑誌
「ミラノ 霧の風景」(須賀敦子、1990年)
 
こんなにいい本だったか、というのがまず第一の感想。
本棚にあり、読まないでそのままだったという体裁ではなかったから10年近く前には読んでいたはずだが、中身にあまり記憶はない。
とにかく読んでみたのは、10月18日にNHK教育TVで「須賀敦子 霧のイタリア追想~自由と孤独を生きた作家~」を見たからである。
 
須賀敦子(1929-1998)の著書では他に「コルシア書店の仲間たち」、「ユルスナールの靴」を読んでいて、特に生前最後の出版である後者では、その文書にいたく感銘をうけた。
だいたい戦後の散文書きで、男にはろくな人がいないけれど、女性には幸田文と須賀敦子がいる。
 
戦後ほとんど最初の欧州留学生の一人、フランスからイタリアへ、ミラノでカトリック左派の書店に勤めることになり、夫にはそこで出会って数年後に死別、その後帰国して、という経歴から、何か書けばそれはもの珍しさだけでも眼をひく。でも、作者は自分の文章を、多分いつも鏡を見ながら描く自画像のようにとらえ、この表現に確信はあるのか、必要以上に美化していないか、効果を狙っていないか、誠実に自問自答しながら書いていたにちがいない。
 
それは読めばわかるものである。その上で出てくる、文章の流麗、よどみ、きしみ、というのはとりもなおさず作者の心のうごき、ありようであって、それが読むものを書かれた世界に誘い、引き込んでいく。
 
知り合った人たちがどういう人たちだったか、自分の感想よりは、その人たちと一緒にしたことや会話、過不足ないとはこういうことか。
ヴェニスの水の音、ゴンドラの音、霧、女達の服装・歩き方など、描写も秀逸。
 
そして、親しかった人たちが何かのおり、仲間だった或る人について、あの人はこういう出自だからと、簡単に言えば、階級がちがうということをごく自然にいう。それを作者は驚くが、何か断定的なことは書かない。
ヨーロッパは今でも本質的には階級社会であって、としたり顔にいえばすむものではないだろう。
   
でも日本語の本であっても、そういうことがあったということを、おそらく実名で作者は書いた。その文章が、何か自然にそこに収まっていることに、作者の力を感じる。

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おとうと (1960、市川崑)

2009-10-27 22:14:08 | 映画
「おとうと」 (1960、98分)
監督:市川崑、原作:幸田文、脚本:水木洋子、撮影:宮川一夫、美術:下河原友雄、音楽:芥川也寸志
岸恵子、川口浩、田中絹代、森雅之、仲谷昇、浜村純、岸田今日子、江波杏子
 
NHK BS-2放送時の解説によれば、製作時に市川崑は大正の感じを出すためにカラーを調整する「銀残し」という手法を使ったらしいが、それがわかるようなポジは残っていないため、今回フィルムセンターが所蔵するネガから残っている当時の関係者立会いのもとに銀残し版を再現したという。確かにそうでないものと比較すると、肌の色など一時期のカラーフィルムの赤がきつい感じではなく、多少緑がかったものになり、樹木の緑も落ち着いたものになっている。特に多い日本家屋室内のシーンには、これはマッチしているといえるだろう。
 
さて私が好きな幸田文の原作である。すぐに全体を思い出せたわけではないが、映画の進行につれて記憶が甦ってきた。
 
冒頭の雨の中、土手を歩くシーン、百貨店で万引きの嫌疑をかけられ毅然と抗議するシーン、おそらく作者自身と思われる姉の気風が現れたところ、まさに岸恵子が見るものをとらえ、そのあとは最後まで放さない。
 
カット割、アップの多用は、大正時代の暗くてせまい日本家屋の中で、そういう映画としての不利を感じさせず、カメラと美術でレンブラントのような不思議な効果を出している。大スクリーンならもっと異様なまでに迫力があるだろう。
 
市川崑特有のミステリー・タッチになりがちなのはよしあし半分ずつだ。それは芥川也寸志の音楽にも言えて、効果よく書かれているけれど、少し饒舌すぎる。
カメラを意識して見ていたら思い出した。そう、この4年後1965年は東京オリンピック、あの記録映画は確かに同じ監督だな、なるほどである。特に弟(川口浩)がボートや馬で遊ぶところなど。
 
姉弟の父親(森雅之)(もちろんモデルは幸田露伴)はなかなか口を開かず、最後までその存在で意味を持たせる。継母は二人にとってやっかいな存在だが、田中絹代は一面的でない演技を最後まで見せる。
 
岸と川口は想定では20歳と17歳くらいなのだが、どうみてもそうとは思えない。これは戦後より大人びていたということと、同じくらいの歳では演じ切れる役者がいなかったからだろうか。
 
川口浩は予想通りうまくないけれども、結核になってからは持ち味がでたといえるだろう。
 
そしてなんといっても岸恵子である。この人の美しさ、強さの一番いいところが出ている。家に帰ってきて、もちろん着物姿で、すぐに襷がけをして家事にかかるところのかっこよさ。声が口先から出てくる欠点はここでもあるが、それも次第に気にならなくなる。最後の最後のシーンも見事で、演出ともども思わず拍手したくなるところが、この話に対する救いにもなっている。

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マスターズ水泳

2009-10-26 10:43:42 | スポーツ
昨日25日で4回目の参加、連続である。日本マスターズ公認ではなく、東急グループのスポーツ施設内で年2回行われるもの。
 
このところ平泳と背泳で出ているが、今回は25mでどちらもパーソナル・ベストが出た。一週間で泳ぐ回数を増やした効果が出たのかもしれない。
背泳はストロークが強くなり、リズムもよくなったようだ。
 
ただこのところシニアの男性が少し減っているようで、ミドルも元水泳部という感じの人が多い。もう少し敷居が低くなると楽しいのだが。
 
もっとも連続して出ていると、自分が底辺あたりということがそれほど気にならなくなってくるから不思議である。
 
さて、普段のトレーニングより距離も密度も大したことがないのに、疲れや一部筋肉痛がすぐ出るのはなぜだろう。やはり無意識にがんばってしまうからか。
それから、一日プールにいると体が冷える。昼食時は普段の服装に着替え、午後は最初に水に入るまでしばらくの時間、別の乾いている水着に変えては見たのだが。選手クラスがレース続きとなると、さぞたいへんだろうと想像される。
 
来年あたりは、リレーにも出てみたい。

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高橋誠一郎浮世絵コレクション名品展 (三井記念美術館)

2009-10-23 17:49:29 | 美術

高橋誠一郎浮世絵コレクション名品展」(慶應義塾創立150年記念 夢と追憶の江戸)

三井記念美術館(9月19日~11月23日)
 
高橋誠一郎(1884-1982)は慶應義塾大学で長らく経済学の教授をつとめていて、名前くらいは知っていたが、これほどの浮世絵コレクションを持っていたというのは驚きである。調べてみると新潟の廻船問屋の出ということだから、裕福ではあったのだろうが、この人が生きた時代がこのようなことが出来る最後だったかも知れない。
 
先週のNHK日曜美術館の後半で紹介されたように、浮世絵の成り立ちから、その多様な対象、様式など、バランスよく目配りされている。さらに保存状態がよいものが多く、また今回の展示はガラス越しに水平から少し上に向いた状態が多く、見やすい。
 
春信、歌麿、写楽、北斎、広重はやはり格別だ。前の三人については、顔や着物が他の人とは一目でわかるほどちがう。そのほか幕末の歌川一門や月岡芳年など、その後のわが国の挿絵、マンガ、イラストなどにつらなる「かぶきもの」ぶりが見えてくるのも面白い。

なお、このコレクションは慶應義塾大学に移譲されており、大学図書館(メディセンター)では、このデジタルアーカイブを作っている。


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のぼうの城 (和田竜)

2009-10-20 15:33:47 | 本と雑誌
「のぼうの城」 (和田竜 著、2007年12月、小学館)
 
普段あまり読まない時代物である。雑誌、TVでいろいろ紹介され評判になっていたから最近のものかと思ったら2年弱前に刊行されていた。
 
1590年、秀吉の北条(小田原城)攻めの一環で、石田三成が率いる二万が今の埼玉県行田にある軍勢二千の忍城(おしじょう)に向かう。秀吉のもとで有能な人材として評価されてはいたが、戦の才では自他共にいまひとつであった三成は、以前秀吉が備中高松城を力ずくで降すときに用いた水攻めを使いたいと最初から考えていた。
 
さて忍城当主成田氏長は、それまでここが武田、上杉、北条などに翻弄されてきた経験を踏まえ、秀吉に内通、降伏の密書を送っているが、三成がそれを知る前である。
 
三成進軍で、忍城の城代になったのは氏長の従兄(?)成田長親だが、これが偉ぶらないのはまだしものぼうさま(でくのぼう)と言われていて、有能な家来数人にも謎の人物である。タイトルはここに由来する。
 
そして、三成軍の降伏勧告を蹴る羽目になり、これは三成が水攻めを試したかったからそうしむけたということなのだが、ここから双方の意外な善戦、苦戦が始る。
 
おそらくいくつもの資料に書かれた結果を推測し、活躍する人物像を組み立て、そのやり取りを創作・再現し、というのは時代小説の定石だろう。それでもこの不思議な話を、こうして読ませるのは作者の並でない力だ。
 
多くの魅力的な男女、そしてその中心に、三成が特異な将器とした長親のなんとものっそりしたわかのわからないキャラクターが座っている。
それはブラックホールというのかなんというのか、この人の行動から、気がついてみると結果はオセロゲームのように突然黒が白に変わり、そのときには三成もなすすべなし、である。
 
登場人物間の会話がいい。それが展開とともに読み進め続けたいと思わせるポイントだろう。
 
そして三成についても、最後の最後まで読めば、この戦における単なる失敗者というわけでもないことがわかる。おりしも大河ドラマ「天地人」で焦点が当てられ、関が原で西軍を率いただけのことはあることが示されていたように、物語の中でこの人が見聞きし、認識を新たにしていく様も面白い。
 
なお、和戦の議、開城時の取引など、戦国時代でも理性的、現実的な交渉ごとはまともにあったように見える。むしろそれが幕末から大戦まで、硬直化していったのではないだろうか。

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