メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

マイケル・ジャクソン THIS IS IT

2009-11-27 17:06:13 | 映画
「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」 ( This Is It 、2009米、111分)
監督:ケニー・オルテガ
マイケル・ジャクソン、オリアンティ(ギター)、ジュディス・ヒル(ヴォーカル)ほか
  
6月25日に突然の死を迎えたマイケル・ジャクソン(MJ)が、直後に控えていたロンドン公演のリハーサルを行っている時の記録、その公演に使うための映像つくりの模様、などから編集されたドキュメンタリー映画である。
 
形式はそうだが、もうこれは見事な音楽映画、レビューを見ているようなものだ。
エネルギー、拍のきれ、次から次へとあふれ出てくるMJのアイデア、その指示、感想、スタッフとのやりとり、生であるほどよさが出てくるというのはこの人のすごいところである。
 
このリハーサルで一生分のエネルギーを使い果たした、といったらMJに失礼だが、そんなことも思い浮かべるほど、充実した画面であった。
 
最後のダンス・ナンバー「ビリー・ジーン」は、ヒットした当時に親しんだということもあり、しみじみ聴き、見た。
 
「三つ数えろ」のあるシーンを使い、MJをその中に入れ、ハンフリー・ボガードに追いかけさせるのは面白い。公演のどこで使う予定だったのだろうか。
 
当初10月末から11月13日までの短期限定公開だったはずが、気がついたら今日までの延長となっていた。昨日、新宿に行ったら売り切れ、初めてネット予約をして丸の内ピカデリーの大画面で見た。
こういう迫力ある環境で見てよかった。
噂には聞いていた終映後の拍手が今日も。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オラファー・エリアソン展

2009-11-23 17:04:47 | 美術

オラファー・エリアソン あなたが出会うとき
金沢21世紀美術館 11月21日(土)~3月22日(月)
 
デンマーク生まれのオラファー・エリアソン(Olafar Eliasson)(1967- )による Your
chance encounter という、光を使った現代アートでもあまり見たことがないものである。
 
さまざまな光の投影、影をつくるしかけ、霧、色彩など、それらの一部はなじみがあっても、それらをなかなか凝ったシステムであっと驚く効果をだしたり、考えさせたり、しばしの時間の体験として見るものに残していく。
 
そして、浅はかな詮索を承知で言えば、北欧の温度の低い輝き、燃焼といった印象が残る。でも、せっかちな価値判断は避けよう。あとあと、見ておいてよかったということがあるかもしれない。
この美術館の構造、機能をベースに考えられた選択、展示のようである。
 
併設展示「広瀬光治と西山美なコのおしゃれな”ニットカフェ・イン・マイルーム”」が、毛糸の編み物でできた部屋(ソファー、花壇風カーペットなど)で度肝を抜いている。
 
特にオラファー・エリアソンを見に行ったのではなく、観光旅行で行って入ってみたらたまたま出会ったというもの。ただこの21日(土)は連休の最初でこの展示のオープンと重なり、かなりの混雑であった。
この美術館にはいつもこのパターンで入るけれど、おそらく5回目か6回目になる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳内ニューヨーク

2009-11-17 22:50:47 | 映画
「脳内ニューヨーク」 (Synecdoche,New York 、2008米、124分)
  
監督・脚本:チャーリー・カウフマン
フィリップ・シーモア・ホフマン、サマンサ・モートン、ミシェル・ウイリアムズ、キャサリン・キーナー、エミリー・ワトソン、ロビン・ワインガード、セイディー・ゴールドスタイン、トム・ヌーナン
 
「マルコヴィッチの穴」(1999)、「エターナル・サンシャイン」(2004)などの脚本で、衝撃を与えたと同時に頭をかかえさせたカウフマンが、今回は初監督である。
他の脚本同様、一回見た今の時点では多分消化不良だろう。
 
ニューヨークで活動している劇作家・演出家ケイデン(フィリップ・シーモア・ホフマン)、どうもうだつがあがらなくて、画家である妻は愛想をつかし、娘をつれてベルリンに行ってしまう。
そんな彼が突然大きな賞をとり、その莫大な賞金をすべてつぎ込み、倉庫の中に彼のイマジネーションでもう一つのニューヨークを作り上げ集めた俳優たちに人生を生きてもらう、という試みを始める。 
 
これを始める前から場面は錯綜し始め、ケイデンと現実に彼とかかわる人たち、そしてその人たちを演ずる俳優たち、が入れ子構造になって動いていく。
 
おそらく、頭の中で求めるものとそのイマジネーション自体が動き出し、本人に反動を与えていく、という構造を作者は作りたかったのだろう。
それにしても、ここに登場する人たちは、頭の中で、人生の真実を求め、作り上げ、現実と他人に敗北し、ぼろぼろになって、結局自分は自分、歳をとってから何気ないものに気づく、というプロセスに、どうしてこんなに苦労するのだろうか。
 
見ているこちらは、あまり身につまされるということも、感情移入もないのであるが。
 
それでも、作劇としては、途中わからなくなっても、全体としての理解にそう困らないようにはできている。
脚本家自身が監督しているから、全体の流れに破綻がないのだろうか。
ただ、他の作品では、監督は見るものが多少困ってもよりめりはりの効いた調子を出していて、それが何回か繰り返してみるうちに、一つ突き抜けた印象を与えていた。特に「エターナル・サンシャイン」。
今回も、いずれDVDで見てみれば何かわかってくるのだろうか。
 
フィリップ・シーモア・ホフマン、もちろん悪くはないのだが、そんなに追い詰められそうに見えない。他作品でのジョン・キューザック、ジム・キャリーなどに比べると、情けないところが似合わない。
 
原題にあるSynecdocheとは、日本語で提喩、代喩という修辞法の言葉で、例えばbladeでswordをbreadでfoodを示すように、一部で全体を、またはその逆をあらわす方法のこと、だそうだ。群像劇の意義ということなのか。
 
冒頭の夫婦と娘三人の部分は快調で気持ちがいいのだが、洗面の配管がこわれ、父が娘に「パイプが、、、」というとそれをタバコのパイプと間違えられ、必死に説明していくのを見ていると、何度も出てくる「パイプ」から思わず「マルコヴィッチの穴」を連想してしまった。
多分関係ないのだろうが。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安井曾太郎の肖像画

2009-11-13 22:21:00 | 美術
安井曾太郎の肖像画」 (ブリヂストン美術館、10月31日-1月17日)
 
日本の近代洋画家で、安井曾太郎(1888-1955)は、知ってはいるけれどもあまり強い印象はなく、好きでも嫌いでもないというのが正直なところである。今回のテーマ展示になっている肖像画も、雑誌の表紙が多かったことは知っていたけれども、没年からすると雑誌が出た時に見たのではなさそうだ。
 
モデルになった人たちのうちで、写真などで知っているひともかなりいる。そしてその出来栄えは、そっくりというより、どこか別の特徴をよくとらえていて見事である。おそらくモデルも、褒められもせず、嫌味でない程度に癖がよく出ていて、気に入ったのではないだろうか。
 
肖像画はまず顔なんだろうが、ほとんどがたっぷりした衣裳を着ているにもかかわらず、その体つきの個性がよく感じ取れる。この観察力とその再現力が画家の力なのだろう。
 
有名な「金蓉」(1934)は東京国立近代美術館で何度も見ているが、よく見ると紺の中国服にあった絵の具のひび割れが目立たなくなっている。これは絵の具だか手法だかの理由でなってしまった有名なものだが、それをどうにかしたというニュースを聞いた記憶がある。その結果なのだろうか。
 
そのほかの所蔵品展示も、なじみのものだと思いながらざっと見てみた。少しずつ変化はある。
アドルフ・モンティセリ(1824-1886)「庭園の貴婦人」、前から展示してあったかどうか。なかなか面白い。
こちらに同じ安井の風景や静物もあって、これらもうまいのだが、並んでいる梅原と比べると、分が悪い。
 
順路で最後の部屋に少しずつ増えている現代ものは、この美術館の柱である「近代」とのつながりで収集されているのか、よく見ると何故入手したのか少しわかってくるところがあり、鑑賞体験としてはいいものである。
ザオ・ウーキー(1921- )の2枚など、見るたびに好きになってくる。
 
もっとも、そう簡単には入っていけないものを見ていくことも、それは別に必要ではあるが。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瘋癲老人日記 (谷崎潤一郎)

2009-11-11 21:51:00 | 本と雑誌
「瘋癲老人日記」 (谷崎潤一郎、1962年) 新潮文庫
 
谷崎潤一郎(1886-1965)のまとまった作品としては最晩年に近いものである。新潮文庫で「鍵」(1956)と一緒になっているように、男の老いと性を扱ったものではあるが、前者がまだ生々しいところとそれに対する執着、日記が相手に読まれるか、読まれるとして書くかという他人との関係、その認識と描写というさまざまな問題を扱い、その方法に対する試みを含んでいるのに対し、これはかなり単純である。
 
主人公は文筆をよくし、和洋の教養もあり、財産を持っている大家族の長で、老いから来る体の不調に不機嫌であるが、頭は性に対する妄想で一杯であり、しかもそれはかなりマゾヒスティックで息子の嫁に集中している。
 
発表された時こちらは学生で、新聞などでかなり騒がれ、周囲でも話題になっていたが、老人が主人公ということもあるのか、これまで読まずにいた。カナカナ表記の日記体というのも、遠ざけていた一因かもしれない。
 
結果として、老年にさしかかる時期に読んでよかったと思う。今読めば、半分は不良老年の、そのわけはよくわかる執着と妄想であり、その見え方がいささか滑稽であるのも自然である。
 
それにしても、文学の世界で、それまでこれに似た世界があったであろうか。おそらく、日本の社会が豊かになり、栄養と医学に恵まれ、体、そして頭の一部がこれまで以上に生きながらえてしまった、こんなに長寿になってしまったことの、帰結だろうか。
 
カタカナの文章は、少し慣れてくると、読み進むのにそれほど苦労はない。自らを恥じずにありのまま書いていく日記体、谷崎の発明と文章力であろう。
 
谷崎の作品は、歳をとって「細雪」から読み始めたが、今後は初期から中期のいくつかを楽しみたい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする