メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

マスターズ水泳

2014-06-30 15:46:10 | スポーツ

恒例の年2回のマスターズ水泳に出た。今回はまた元に戻り、100m個人メドレーである。

最近は無理のない動きできれいに泳ぐことを課題にしていて、ゴールした時息も絶え絶えというのは年齢を考えればよくないという考えもあり、普段のレッスンでフォーム主体の泳ぎといわれる感じで泳いだ。

それはいいのだがタイムはというと、2年前のパーソナル・ベストより10秒遅く、また昨年と比べても7秒も下回った。

 

飛び込みスタートはうまくいき、最初のバタフライは余計な力が入らない形でスタミナはかなり余して次の背泳に入った。ところがここから少しスピードを、ピッチを上げようとしたのだが、それがそうならない。次の得意の平泳ぎに入っても、もっと上げていってもいいのだがそうならない。そのうちに終わってしまった。

 

今回わかったことは、最初にそれなりのピッチを作らないとだめということで、その上で最後までのスタミナ配分、ということ。まことに競技というのは難しいものである。 

 

この反対に、私よりかなりレベルが上の人でも、ペース配分に失敗し、最後の25mはバタバタという人もいた。

 

もうあくまで安全第一に、参加することに意義ありなのだが、その中でいかに少しでもうまく泳ぎ、タイムをまとめるか、その探求だろう。

 


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最相葉月「仕事の手帳」

2014-06-26 09:31:06 | 本と雑誌

「仕事の手帳」 最相葉月 著 (2014年4月 日本経済新聞出版社)

 

ノンフィクション・ライターとして取材したり、書いて出版したりすることに関して、心がまえ、苦い経験などをつづったもの。

絶対音感、星新一、セラピスト、、、と、読む方からすれば書いてくれて感謝するものが多いのだが、著者からすると必ずしも得意の分野でもなく、徒手空拳のような状態から、多くのステップを経て完成させていった、また中には世に出さなかった、ということを、軽くなく流れないいつもの文章で読むことができる。

 

書いている自分を常に顧みながらこうして書いていくのは、たいへんなエネルギーと持続力がいることだな、と驚く。

ただ、おそらくそういうものがあれば書けるはずだという著者の信念も伝わってくる。

 


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華麗なるギャツビー (1974年)

2014-06-25 14:03:37 | 映画

華麗なるギャツビー ( The Great Gatsby、1974米、141分)

監督:ジャック・クレイトン、原作:スコット・フィッツジェラルド、脚本:フランシス・フォード・コッポラ、撮影:ダグラス・スローカム、音楽:ネルソン・リドル

ロバート・レッドフォード(ジェイ・ギャツビー)、ミア・ファーロー(デイジー・ブキャナン)、サム・ウォルターストン(ニック・キャラウェイ)、ブルース・ダーン(トム・ブキャナン)、カレン・ブラック(マートル・ウィルソン)、スコット・ウィルソン(ジョージ・ウィルソン)

 

先日見た同じ原作の映画(2012年、監督:バズ・ラーマン、レオナルド・ディカプリオ、トビー・マクグワイア他)に言及したとき、あまり記憶はなかったけれどこっちを思い浮かべ、この作品とはちょっと別の方向に振ったものではと思った。

 

それはやはりそうで、これは筋、風俗など背景をていねいに描き、上映時間もほぼ同じなのだが、ゆっくり飽きさせずに進行する。

脚本でいちばん違うところは、語り部のックの扱いだろう。前記の映画では、精神を病んだ彼の回想として描かれていた。

 

見るものにとってギャツビーとは何者なのか。そう感情移入できるわわけではない。ああいう、人生の一幕に対するこだわり、実現するとは本気に思ってなくても、力を持てたときに突き進んでしまう、そういうことはわかるのかもしれない。それをこの映画のようにきれいにじっくりと描くと、まあそういうこともあるかな、と感じられる。

 

レッド・フォードのジェイはなんといってもの登場シーンのスマイル、あれは他のどの人がやっても嘘っぽいだろう。ディカプリオの方が虚飾の人を演じてぴったりとは思うのだが、そうはいかないのが面白い。

 

ミア・ファーローのデイジー、やはりこの体重を感じさせないつまり普通に言って存在感のない役にはこの人しかないと感じさせる。

 

一気に見せる、浸れたと思って、脚本はと見るとコッポラ、なるほど。しかもゴッド・ファーザーの合間のようだ。カメラはインディー・ジョーンズ シリーズの人。

 

音楽はしっとりとしたスタンダード・ジャズをうまく使っている。原作の舞台より10年ほどのち、名作が多い1930年代の雰囲気だが、采配はネルソン・リドル、この人を使える時期でよかった。

 

終盤、そろそろ悲劇の兆候、、、と暗示させるあたりのセリフ、カメラがいい、それも後味が。


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ジャズピアノのソロ演奏

2014-06-23 14:30:30 | 音楽一般

先日、教室内ではない人前で初めてピアノを弾いた。

あるピアノサロンで小さい集まりがあり、クラシック、ポピュラー、ジャズなどさまざまなジャンルの曲を、技量も様々な人たちが演奏したもの。

ピアノに合わせてヴォーカルとサックスがちょっとあるほかは、すべてピアノソロか連弾である。

 

私がソロで弾いたのは、今年に入ってから教わりながらやっている Bags' Groove、このテーマを作ったミルト・ジャクソン(ヴィブラフォン)とマイルス・デイビス(トランペット)、セロニアス・モンク(ピアノ)たちがやった演奏が有名である。

 

これはFのブルース・スケール6音のうちの5つからできているテーマで、まだピアノに慣れていない私としては、これにもう1音加えた6音でアドリブ右手部分を自作し、左手はテーマに書かれてあったコードをこの曲の雰囲気に合いそうな、自分で気に入った調子でやってみた。

 

右手の音列は記譜後ほとんど変えていないが、音の長さは書いていないので、演奏ごとに多少ちがうはずである。 

練習時にゆっくり弾いているときはほとんどはずさないで弾けたものの、本番ではそうはいかなかった。とはいえ、止まってしまうとか部分的に繰り返したりというほどのことはなく、ジャズはこうあるべしといわれるように、止まらずに最後までいけたのでまずまの出来だろう。

 

これはもっとうまい人でもよくあることだけど、やはりテンポはだんだん早くなってしまった。

 

ピアノはグランド、それもなんとスタインウェイ! 普段のアップライトと比べると、打楽器的な性格からより弦楽器的な方にふられた感じがある。

 

もう一つ加えて、Fly Me To The Moon を一緒にジャズピアノを習っている方の伴奏で歌った。これまでもよく歌っているものだが、今回マイクが効かず、ちょっと残念。喉をいためるほどにはならなかったけれど。

 


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クロワッサンで朝食を

2014-06-18 21:22:12 | 映画

クロワッサンで朝食を ( Une Estonienne A Paris、2012仏・エストニア・ベルギー、95分)

 

監督:イルマル・ラーグ

ジャンヌ・モロー(フリーダ)、ライネ・マギ(アンヌ)、パトリック・ピノー(ステファン)

 

一筋縄ではいかない人生、でもそれを納得いく形に、そしてそう簡単ではない決断をおりまぜながら、見ているものを継続して楽しませる、なかなかな映画である。

 

母を看取り、子供も手がかからなくなっているシングルマザーのアンヌ、エストニアの人だが、パリに来て老婦人の家政婦をするという仕事の話が来て、行く決断をする。

 

行ってみると世話をするフリーダは、裕福だが気難しく、アンヌにとっては意地悪でしかない扱いを続ける。朝食を用意してもよいとようやくなったら、そのクロワッサンはスーパーでなくパン屋で買ったものではなくては、とか。これが邦題のもと。

 

そのうち、カフェのオーナーでこの仕事の仲介をしたステファンが、その昔フリーダのかなり年下の情人で、カフェもフリーダが持たせてくれたものだということがわかる。こういう関係の続きかたもフランスというか、大人というか、そういうものなんだろう。

 

そしてフリーダも実はエストニアから来たということがわかってくる。こういう大人たちだが、それでも過去のトラウマというか因縁というかそういうものから切れない、切れないが付き合いはある、でも本音では相手が死んでしまえば楽になると思っている、そういう話が無理なく、破綻なく混ぜあわされ、難しい進行になりそうなところでほっとする動きがうまく入ってくるから、娯楽性という観点からもよくできている。

 

ジャンヌ・モローはもちろんうまいが、彼女でないという風ではない。そう見せるところがまたこの人の女優としてすごいところなのだが。

 

ピノーのステファンもなかなかはまっている。

ただこの映画でもっとも感心するのはアンヌのライネ・マギで、家政婦として雇われたこともあり、他の二人に対して思うことを言う機会も少なく、必然的に抑えた演技になるわけだが、小さい転回点でふっと見せる表情の変化で見ているものはその心のうち、変化を読み取ることができる。

 

邦題はしゃれたパリを強調して、観客動員をねらったものかもしれないがその効果はなかっただろう。現代どおり「パリのエストニア人(女性形)」でよかった。

 


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