メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

チェーホフ短篇集

2021-12-31 09:50:49 | 本と雑誌
新訳 チェーホフ短篇集
アントン・チェーホフ 沼野光義 訳  集英社
何十年ぶりかのチェーホフである。最近読む長いものはミステリが多くなってきたが、短編もいいかそれも一度読んだものでもと、ヘミングウェイに行く前にチェーホフを思い出した。
 
手元に文庫本?と探してみたがいつの間にか処分したらしく、それではどこかで神西清訳でもと探したが、案外売ってなかった。ところが単行本でこの新訳があることを知り、それではというわけである。
所収の13篇の多くはこれまでに読んだか題名を知っているものだが、その題名もちょっと新しくなったものもある。
 
何より本として珍しいのは、一編ごとに詳細な解説がついていることで作者の細かい意図や、雑誌掲載と刊行本との大きい異動があるものなど、興味深い。ただこれは、今回の私のように再読ならいいが最初から読むとどうだろうか。それは訳者も指摘してはいる。
 
こうして読んでみると、チェーホフの作品、ロシアの市井、農村などの庶民への優しい視線とその底にある残酷、それらを一つ一つの作品としてまとめた腕、これらにはあらためて感ずるところが多かった。そして小説として、対社会として、訳者もいうようにかなりシュールで、それは以前読んだ時の「ふさぎの虫」の感覚を超えるものがある。
少し長めの中編「奥さんは子犬を連れて」(通常は「犬を連れた奥さん」)など、最後は読者にまかせているのだろうが、私の解釈ではかなりこわい。
 
さてここから少し個人的な話
「いたずら」(これまで「たわむれ」と訳されてきた)という作品、若い男女がそり滑りで遊んでいて、滑るたびに男が隣で「好きだよ」というのだが、女の子はそれが彼なのか風の音なのかわからない。何度やっても同じだった。この結末は雑誌掲載と刊行本とでまったく違っていて、本書では併記されている。
 
その結末はともかく、これを読んでいて他の短編とは違う記憶の感覚がした。そしてしばらくして思い出したのだが、実はこれ最初に読んだのはロシア語原文だった。
大学は理科系に進学したのだが、教養課程の第二外国語、ドイツ語が多かったが、理系ならロシア語やっておくと何かと役に立つのでは、となんとなく考えこれをとった。それなりの人数いたと思う。ソビエトは嫌いだったが、ロシアの文学、芸術は好きだったし。
 
当時の外国語授業は乱暴なもので、ロシア語もあの変わった文字と初級文法をさっとやったら、あとは文章、ほとんどの単語に対して辞書をひきながら読む。単位を取るためには必死である。
 
そのテキストがこの「いたずら」だった。ロシア語は専門課程に行ってから目にする機会はなくなり、このテキストのことも頭にうかぶことはなかった。そころが半世紀あまりを経てこういうかたちでよみがえったというのは不思議というよりなにかうれしい。
 
教わったのは池田健太郎先生(たしか助教授)で、雑談も面白く、理科系の生徒だからか、あまり勉強ばかりしないで遊びなさいとよく言っていた。何人かでお宅にうかがってごちそうしていただいたこともある。後に中央公論社「世界の文学」で翻訳を担当されたドストエフスキーの「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」、「悪霊」を読ませていただいた。やはり新世代の訳だったと思う。
チェーホフについても師事していた神西清氏と一緒に優れた仕事をされたが、残念なことに未だ若くして急逝された。

それでは第一外国語の英語はというと、記憶にあるのが小田島雄志さん(助教授)で、後にシェイクスピアで有名になる前、演劇に熱心(これは池田さんもそうだった)で、使ったテキストがアイリス・マードックのたしか「切られた首」、ここで出会わなければ彼女の名前さえしらずに終わったかもしれない。かなり刺激的な授業だったと記憶している。
 
専門課程に行ってからまじめに勉強しなかったせいか、大学で教わったことはほとんど覚えていない。授業風景としては上記の二つくらいだが、思い返すと幸せな体験だった。



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ハスラー

2021-12-30 09:33:19 | 映画
ハスラー ( The Hustler、1961米、134分)
監督:ロバート・ロッセン
ポール・ニューマン(エディ)、ジャッキー・グリーソン(ファッツ)、パイパー・ローリー(サラ)、ジョージ・C・スコット(バート)、マイロン・マコーミック(チャーリー)
 
ビデオで一度見ているはずだが、よく覚えてはいない。この時代でモノクロだから地味な印象があったかもしれない。
玉つきでビリヤードとプールの違いもわからないが、まだ若いが腕がたつエディは賭博師らしいチャーリーと一緒に,賭けとして競技をしながら旅を続けていたが、願望は伝説の名人、通称ミネソタ・ファッツに勝つことだった。この「ミネソタ・ファッツ」という言葉で見たことがあるのを思い出した。
 
エディはファッツと出会い勝負する。初めは勝ち続けたが、昼夜を経ていくうちに、ファッツの持続力に歯が立たなくなり敗北する。
 
その後、出会った若い娘サラと暮らすようになるが、ファッツとの闘いの場にいたt賭博師バートにそそのかされ競馬が開催されているルイ・ビルに行く。
バートによればエディは腕が立つが、ファッツには勝てない、それは相手にある気骨がないからだ。
 
ここにくるまでの金稼ぎで指を傷つけられたり、サラとうまくいかなかったりしたあと、その過程で何かを得たのか、ついにファッツに勝ち、バートの腕の中からも抜け出す。ファッツともわかりあって終幕。
 
ドラマの起伏としてはよく出来ているが、おそらく軸になるエディの成長ということからすると、もの足りない感もある。チャーリー、バートの二人からの独立、サラとも人間同士のつきあい、これらの課題の描き方がもう少し。
 
ファッツとのやりとりは最後に効いてきたが、もう少し見たかった。
カメラ、場面転換は優れている。
 
ポール・ニューマンの演技は今から見ればまあ普通、ローリーのサラは途中まで謎の部分が多すぎ、どうかなと思ったが、終わってみるとこれでよかったか。
スコットはここではまだ後の存在感は出ていない。
 
やはりジャッキー・グリーソンだろうか。この名前、私が若いころよく流れていたムード音楽の楽団にあったが、たまたま同じ?と思っていたら、どうも同一人物だった。こういう人がいた時代だったのか。

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エマニュエル・トッド「老人支配国家 日本の危機」

2021-12-08 14:54:59 | 本と雑誌
老人支配国家 日本の危機 : エマニュエル・トッド 著  2021年11月 文春新書
  
数年前からトッドが書くものを注目し、何冊か読んできた。幼児死亡率からソ連の崩壊を予言した人口学者として有名で、例の2015年「シャルリ・エブド」(パリ)の襲撃事件を受けてフランス各地に起きた動きに関する論説は他にないユニークなものであった。
 
本書はその後文藝春秋に何度か書かれたものを集めたものだが、こんなに書かれていたとは知らなかった。例えば、トランプが当選するまえ、当選を予言するところまではいっていないが、多くの支持を集めている背景を説得力ある形で説いている。すなわち日本にはあまり入ってこない白人中下層の意識であって、高学歴リベラルのインテリや新聞などの視点からは抜け落ちている層である。
 
結果としてそれは当たっており、トランプは次の選挙で敗れたが、問題は変わっていない。
そのほか、人口と家族構造から多くを説き起こしていて、仮設にとどまっているかと本人も行っているケースもあるけれども、まただからどうせよとすぐにはならないにしても、今日世界に起きている難題を落ち着いて理解する助けになる。
 
おりからアメリカ(民主党)が世界に民主主義、人権をアピールしているけれども、独裁主義とはいわないまでも「権威主義」(最近こういうことが多い)の支配国数の方が多い現代であり、中にはなんとか治まって人民が生きていけている国もあるということを、どう考え、国際政治のなかで動いていったらいいのか、しばらく見ていく必要はあるのだろう。
 
またこの中には、よく見ている「英雄たちの選択」(NHK BSP) の磯田道史との対談もあり、思考実験として面白い。
 
一つ一つの指摘についてどうかということは、ここでは置いておく。


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