新訳 チェーホフ短篇集
アントン・チェーホフ 沼野光義 訳 集英社
何十年ぶりかのチェーホフである。最近読む長いものはミステリが多くなってきたが、短編もいいかそれも一度読んだものでもと、ヘミングウェイに行く前にチェーホフを思い出した。
手元に文庫本?と探してみたがいつの間にか処分したらしく、それではどこかで神西清訳でもと探したが、案外売ってなかった。ところが単行本でこの新訳があることを知り、それではというわけである。
所収の13篇の多くはこれまでに読んだか題名を知っているものだが、その題名もちょっと新しくなったものもある。
何より本として珍しいのは、一編ごとに詳細な解説がついていることで作者の細かい意図や、雑誌掲載と刊行本との大きい異動があるものなど、興味深い。ただこれは、今回の私のように再読ならいいが最初から読むとどうだろうか。それは訳者も指摘してはいる。
こうして読んでみると、チェーホフの作品、ロシアの市井、農村などの庶民への優しい視線とその底にある残酷、それらを一つ一つの作品としてまとめた腕、これらにはあらためて感ずるところが多かった。そして小説として、対社会として、訳者もいうようにかなりシュールで、それは以前読んだ時の「ふさぎの虫」の感覚を超えるものがある。
少し長めの中編「奥さんは子犬を連れて」(通常は「犬を連れた奥さん」)など、最後は読者にまかせているのだろうが、私の解釈ではかなりこわい。
さてここから少し個人的な話
「いたずら」(これまで「たわむれ」と訳されてきた)という作品、若い男女がそり滑りで遊んでいて、滑るたびに男が隣で「好きだよ」というのだが、女の子はそれが彼なのか風の音なのかわからない。何度やっても同じだった。この結末は雑誌掲載と刊行本とでまったく違っていて、本書では併記されている。
その結末はともかく、これを読んでいて他の短編とは違う記憶の感覚がした。そしてしばらくして思い出したのだが、実はこれ最初に読んだのはロシア語原文だった。
大学は理科系に進学したのだが、教養課程の第二外国語、ドイツ語が多かったが、理系ならロシア語やっておくと何かと役に立つのでは、となんとなく考えこれをとった。それなりの人数いたと思う。ソビエトは嫌いだったが、ロシアの文学、芸術は好きだったし。
当時の外国語授業は乱暴なもので、ロシア語もあの変わった文字と初級文法をさっとやったら、あとは文章、ほとんどの単語に対して辞書をひきながら読む。単位を取るためには必死である。
そのテキストがこの「いたずら」だった。ロシア語は専門課程に行ってから目にする機会はなくなり、このテキストのことも頭にうかぶことはなかった。そころが半世紀あまりを経てこういうかたちでよみがえったというのは不思議というよりなにかうれしい。
教わったのは池田健太郎先生(たしか助教授)で、雑談も面白く、理科系の生徒だからか、あまり勉強ばかりしないで遊びなさいとよく言っていた。何人かでお宅にうかがってごちそうしていただいたこともある。後に中央公論社「世界の文学」で翻訳を担当されたドストエフスキーの「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」、「悪霊」を読ませていただいた。やはり新世代の訳だったと思う。
チェーホフについても師事していた神西清氏と一緒に優れた仕事をされたが、残念なことに未だ若くして急逝された。
それでは第一外国語の英語はというと、記憶にあるのが小田島雄志さん(助教授)で、後にシェイクスピアで有名になる前、演劇に熱心(これは池田さんもそうだった)で、使ったテキストがアイリス・マードックのたしか「切られた首」、ここで出会わなければ彼女の名前さえしらずに終わったかもしれない。かなり刺激的な授業だったと記憶している。
専門課程に行ってからまじめに勉強しなかったせいか、大学で教わったことはほとんど覚えていない。授業風景としては上記の二つくらいだが、思い返すと幸せな体験だった。
アントン・チェーホフ 沼野光義 訳 集英社
何十年ぶりかのチェーホフである。最近読む長いものはミステリが多くなってきたが、短編もいいかそれも一度読んだものでもと、ヘミングウェイに行く前にチェーホフを思い出した。
手元に文庫本?と探してみたがいつの間にか処分したらしく、それではどこかで神西清訳でもと探したが、案外売ってなかった。ところが単行本でこの新訳があることを知り、それではというわけである。
所収の13篇の多くはこれまでに読んだか題名を知っているものだが、その題名もちょっと新しくなったものもある。
何より本として珍しいのは、一編ごとに詳細な解説がついていることで作者の細かい意図や、雑誌掲載と刊行本との大きい異動があるものなど、興味深い。ただこれは、今回の私のように再読ならいいが最初から読むとどうだろうか。それは訳者も指摘してはいる。
こうして読んでみると、チェーホフの作品、ロシアの市井、農村などの庶民への優しい視線とその底にある残酷、それらを一つ一つの作品としてまとめた腕、これらにはあらためて感ずるところが多かった。そして小説として、対社会として、訳者もいうようにかなりシュールで、それは以前読んだ時の「ふさぎの虫」の感覚を超えるものがある。
少し長めの中編「奥さんは子犬を連れて」(通常は「犬を連れた奥さん」)など、最後は読者にまかせているのだろうが、私の解釈ではかなりこわい。
さてここから少し個人的な話
「いたずら」(これまで「たわむれ」と訳されてきた)という作品、若い男女がそり滑りで遊んでいて、滑るたびに男が隣で「好きだよ」というのだが、女の子はそれが彼なのか風の音なのかわからない。何度やっても同じだった。この結末は雑誌掲載と刊行本とでまったく違っていて、本書では併記されている。
その結末はともかく、これを読んでいて他の短編とは違う記憶の感覚がした。そしてしばらくして思い出したのだが、実はこれ最初に読んだのはロシア語原文だった。
大学は理科系に進学したのだが、教養課程の第二外国語、ドイツ語が多かったが、理系ならロシア語やっておくと何かと役に立つのでは、となんとなく考えこれをとった。それなりの人数いたと思う。ソビエトは嫌いだったが、ロシアの文学、芸術は好きだったし。
当時の外国語授業は乱暴なもので、ロシア語もあの変わった文字と初級文法をさっとやったら、あとは文章、ほとんどの単語に対して辞書をひきながら読む。単位を取るためには必死である。
そのテキストがこの「いたずら」だった。ロシア語は専門課程に行ってから目にする機会はなくなり、このテキストのことも頭にうかぶことはなかった。そころが半世紀あまりを経てこういうかたちでよみがえったというのは不思議というよりなにかうれしい。
教わったのは池田健太郎先生(たしか助教授)で、雑談も面白く、理科系の生徒だからか、あまり勉強ばかりしないで遊びなさいとよく言っていた。何人かでお宅にうかがってごちそうしていただいたこともある。後に中央公論社「世界の文学」で翻訳を担当されたドストエフスキーの「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」、「悪霊」を読ませていただいた。やはり新世代の訳だったと思う。
チェーホフについても師事していた神西清氏と一緒に優れた仕事をされたが、残念なことに未だ若くして急逝された。
それでは第一外国語の英語はというと、記憶にあるのが小田島雄志さん(助教授)で、後にシェイクスピアで有名になる前、演劇に熱心(これは池田さんもそうだった)で、使ったテキストがアイリス・マードックのたしか「切られた首」、ここで出会わなければ彼女の名前さえしらずに終わったかもしれない。かなり刺激的な授業だったと記憶している。
専門課程に行ってからまじめに勉強しなかったせいか、大学で教わったことはほとんど覚えていない。授業風景としては上記の二つくらいだが、思い返すと幸せな体験だった。