メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

最相葉月「ナグネ」

2016-08-12 21:55:44 | 本と雑誌
ナグネ 中国朝鮮族の友と日本 : 最相葉月 著 岩波新書 2015年3月
 
本としてもまたこの著者としても、読者からすると思いがけないものである。
 
16年前に若い女性から電車の駅について聞かれ、行き先が同じだったので話を始めたところ、その女性は中国からの留学生で、日本での生活で苦労しており、いろいろ相談にのっているうちに、身元保証人のようになっていく。
 
中国のハルビンから来たといっても、祖父母の代は朝鮮で、日本の満州政策で、労働者として朝鮮から移住、終戦から朝鮮戦争、その終結の過程で選択肢はあったものの、ハルビンにとどまった。終戦後も、日本語教育が認められていたそうで、その出自からハングルも話す世代があって、彼女もそう。三か国語が話せることをいかし、日本の中国、旧満州などへの進出のなかかで仕事を積極的に得たりしている。
こういう朝鮮族があったということ、そして戦後の日本語、ハングルの位置づけは著者も知らなかったことで、さらにこの人たちの間では地下にもぐったキリスト教がかなり普及している。
 
そして著者は彼女に実家を訪ね、一族の多くの人たちに会うし、長い間には彼女の環境には激しい変化がある。
著者はこういう状況の背景を調べ確認していく中で、また実家探訪の中で、過去の事実に驚き、また特に郷里で日本に対する強い攻撃にもあう。
 
著者のこれまでの多くの著作で得ることが多かったのだが、どれも事実、資料に語らせることが基本になっていて、それがノンフィクション・ライターとして好きなところであったが、今回はどうなのか、個人の体験、印象から、何か思い入れがあり、それの主張になるのか、と心配もしたが、そうはならなかった。
 
この中国の女性は、親族との話で出てくる日本の話は肯定しても、だからといってそれを表に出すことより、生活していくことが何より大事であり、それを基本に著者に接していった。著者も、日本と朝鮮族とのこういうかかわり、日本企業の中国における生産に従事する人たちの境遇・背景などについて、知らなかったことを恥じながらも、この女性の生き方を受け止め、読者に強く印象づけている。
なお、ナグネとは旅人のことだそうだ。
 
最相葉月さんの「青いバラ」、「セラピスト」、「星新一」、「絶対音感」など,愛読してきたわたしにとって、彼女の新しいアプローチを知ることができた。

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チャイコフスキー「イオランタ」/バルトーク「青ひげ公の城」(メトロポリタン)

2016-08-05 08:52:29 | 音楽一般
チャイコフスキー:歌劇「イオランタ」
アンナ・ネトレプコ(イオランタ)、ピョートル・ベチャワ(ヴォデモン)、アレクセイ・マルコフ(ロベルト)、イリヤ・バーニク(レネ王)、イルヒン・アズィソフ(医者)
バルトーク:歌劇「青ひげ公の城」
ナディア・ミカエル(ユディット)、ミハイル・ペトレンコ(青ひげ公)
指揮:ワレリー・ゲルギエフ、演出:マリウシュ・トレリンスキ
2015年2月14日 ニューヨーク・メトロポリタン 2016年7月 WOWOW
  
上演時間が短いことから2演目となっているが、同じ演出者で、テーマ解釈、舞台演出ともに共通、統一感がある。両方とも童話をもとにしている。
青ひげはブーレーズの録音をきいたことがあるけれども、イオランタはその存在もしらなかった。1882年、チャイコフスキー最後のオペラだそうだ。
 
イオランタはとても優れた作品。生まれつき盲目の王女が王によって隔離して育てられ、自分が他人と違うということも知らずに育てられ、王は医者に治癒を願うが、医者は王女が盲目であることを自ら知らなければ治らない、と言われてしまう。そこへ、貴族の若者が二人あらわれ、一人が王女に恋い焦がれ、彼女が盲目であることに一度は絶望するが、それもあって王女は自分のことに気づいてしまう。王は結局それを受け入れ、二人は結ばれる。
 
演出は立方体の枠組みを回転させ、それに照明を加えて効果を出している。これは盲目の主人公に集中させることも含め、成功していると言える。
 
なんといってもネトレプコのイオランタが素晴らしい。王女の清らかさと、常人を寄せつけない強さがあり、母国語ロシア語の歌唱はやはり自然で聴きやすかった。ベチャワはこれまであまり好きになれない派手なテノールだったが、今回は役に合っていたと思う。
チャイコフスキーの音楽は、意外にも世紀末の雰囲気を持っており、ゲルギエフの指揮は期待通り見事なものだった。
 
なおこの話には、最後の最後まで父である王がイオランタを自分の手の中に置いておきたいというところがあるのだが、最後の幕のところでそれをあまりにもわかりやすく演出したのはちょっと安っぽかった。
 
青ひげはプロジェクトマッピングを多用した演出で、それは場面への対応の柔軟性は優れていたが、各部屋の対照が明確にならないところもあった。
 
この作品、今回気がついたのは、各部屋への好奇心からユディットが開けてくれというケースと、青ひげが見ろというところ、両方がある。結局最後は、男の支配欲、それの誇示、それは弱さでもあるのだが、それが女にふりかかる悲劇で終わる。
 
ユディットのナディア・ミカエルは、女の好奇心で突き進んでいくところ、場面によって見せる驚きを弱さ、その演技力と歌唱は、はまり役である。エロティックな衣装と動きも慣れているのだろう。ただ、好みから言えば、もう少し少女というか未熟な女性のイメージで演出ということもありうるのではないか。
また青ひげのエゴを弱さを考えたときに、この最後の見せ方はちょっと弱い感じがした。

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モーツァルト「フィガロの結婚」(メトロポリタン)

2016-08-01 09:35:06 | 音楽一般
モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」
指揮:ジェイムズ・レヴァイン、演出:リチャード・エア
イルダール・アブラドラザコフ(フィガロ)、マルリース・ペーターセン(スザンナ)、ペーター・マッテイ(アルマヴィーヴァ伯爵)、アマンダ・マジェスキー(伯爵夫人)、イザベル・レナード(ケルビーノ)、イン・ファン(バルバリーナ)、ジョン・デル・カルロ(バルトロ)、スザンヌ・メンツァー(マルチェリーナ)
2014年10月18日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2016年6月WOWOW
  
幕があく前の満場の拍手でよくわかるように、復帰した指揮者レヴァインのフィガロ、待ってましたという雰囲気。
見終わっても、まずはレヴァインの指揮につきる。とにかく快調なテンポ、いたるところでブリオを感じさせ、傑作と呼ばれる割には特に後半退屈することもあるこのオペラを一気に持っていく。
 
リチャード・エアの演出は衣装、装置などの時代設定を1930年代にし、「階級とセックス」をテーマにした、と幕間のインタヴューで語っていた。ただこの間見た2007年のザルツブルグ(演出:クラウス・グート)や、2012年のエクサン・プロバンス(演出:リシャール・ブリュネル)に比べると、なんだかチラリズムという程度で、メトロポリタンの行儀良さの範囲に収まっている。
特にザルツブルグは衝撃的で、この作品の本質を考えなおさせるものであった。一方でここでの指揮は先日亡くなったアーノンクール、ゆったりたテンポで舞台の動きに注目し考えさせるにはよかったが、音楽自体としてどうだったか。ここにレヴァインがいたらというのは贅沢なんだろう。
  
さて今回気がついたのは、伯爵夫人ロジーナで、もちろんロッシーニ「セヴィリアの理髪師」で描かれているように、フィガロの機転でアルマヴィーヴァ伯爵と一緒になったものの、一転伯爵は好色ぶりを発揮して、今度も初夜権廃止を一度は宣言したものの、スザンヌに手を出そうとする。夫人にはまだ子供はいないし、フィガロの歳を考えても彼女はまだそんなに歳ではない。私も最初に聴いた全曲盤でのシュヴァルツコップの感じからして、何か今風に言えば熟女という感覚があったが、そうではなくてまだ「女」であり、そいういう歌であり、演出によってはスザンヌと入れ替わりも不思議はないように見せられる。
ロジーナとスザンヌの二人は容姿も似ていて、ロジーナの歌唱・演技もまだ若いという感じで、これは今回の収穫。
  
伯爵とフィガロは、二人とも快活な歌唱、伯爵はまだ若々しく好色ぶりもおやじのそれではない。フィガロは体型がもう少しスリムであったらと思う。もっともバルトロ(巨漢デル・カルロ)の息子ということが終盤わかると、それも無理はない(これは冗談)。
 
さて期待したイザベル・レナードのケルビーノ、姿はまるで宝塚の男役のようで一見ぴったりだが、もう少し少年ぽいほうがいいかもしれないのと、肝心の「自分で自分がわからない」(これがこのオペラの性的な性格を如実に示す歌なのだが)が、いま一つオーケストラに遅れ気味でだったのが、おしい。
 
そのほかではバルバリーナのイン・フォンの演技が巧みで、チャーミングだし、今後脇役で活躍しそうだ。

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