メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ドン・パスクワーレ(ドニゼッティ)(メトロポリタン)

2012-01-30 14:24:54 | 音楽一般
ドニゼッティ: 歌劇「ドン・パスクワーレ」 
指揮:ジェームズ・レヴァイン、演出:オットー・シェンク
ジョン・デル・カルロ(ドン・パスクワーレ)、アンナ・ネトレプコ(未亡人ノリーナ)、マシュー・ポレンザーニ(パスクワーレの甥エルネスト)、マリウシュ・クヴィエチェン(医者)
2010年11月13日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場  2012年1月WOWOWで放送されたもの
 
この作品、ムーティ指揮のLPレコードを持ってはいるのだが、聴いた記憶がない。多分一度だけとにかく聴いてあとは放っておいたのだろう。
ただ、今回のように映像で楽しむのと違って、特にコメディはその良さは録音だけではわからなかったかもしれない。上記のような達者な4人を存分に活躍させれば、ばかばかしい筋でこれだけで長い音楽に出来るものでなくても、歌手も観客も歌と演技をとにかく楽しめる。
 
年寄のやもめで金持ち、強欲、好色なパスクワーレ、その甥エルネストは未亡人ノリーナと結婚したいのだが、パスクワーレはそうしたら遺産はやらないと許さない。一方パスクワーレはかかりつけの医者に、嫁探しを頼み、甥と仲いい医者は一計を案じ、未亡人の素性を偽り、パスクワーレの結婚相手にしたてる。
そのあとのどたばた、最後にパスクワーレが懲らしめられて、めでたしめでたしとなるのはおきまりといえばおきまりである。
 
歌手の4人はみな達者で、パスクワーレのカルロは体躯も大きく、わがままだが能天気で憎めない明るいキャラクターがぴったり、医者も甥も声がよく、たっぷり聴かせる。
しかし、なんといっても満場の歓心をさらってしまうのはアンナ・ネトレプコのノリーナで、天然の色気がすばらしく、舞台狭しと飛び回り、先のジュリエット役と対照的である。どうもこっちが普段の本人のようだ。
 
そんなにしても驚異的なスタミナで歌唱が乱れないのはジュリエットの時と同様である。
ラブシーンで二人が見つめあいながら、口を近づけて、大きな声ですばらしいハーモニーになるのは、これぞメトのそしてビデオの愉悦だろうか。
 
それにしても、ジェームズ・レヴァインという人は、オペラならなんでも、ワルキューレからパスクワーレまで、聴くものに幸福を与えてくれるすごい人である。
いい意味で、こういうお金をかけて世界中の多くの人たちを楽しませようというメトロポリタンにぴったりな、不世出の指揮者ではないだろうか。
 
あと、こういう強欲、好色な初老のやもめ、このあともファルスタッフ(シェイクスピア/ヴェルディ)、オックス(ホフマンスタール/リヒャルト・シュトラウス)とあるわけだが、見る限りみな立派な体躯の人が演じるようだ。いじめる相手は大きい方がいいということか。
 
あとひとつ、最後から一つ前の場が終わるところで、パスクワーレと医者の見事なかけあいがあり、拍手がわくと、またオーケストラが始まりその部分のアンコールとなった。こういうことはあって不思議はないけれど、実際に見たのは初めてである。
このようにメトロポリタンの一番良い面が出た演目であった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポーカー・フェース(沢木耕太郎)

2012-01-28 16:05:55 | 本と雑誌
「ポーカー・フェース」 沢木耕太郎 著 (2011年、新潮社)
 
特定のテーマに沿った長編、あるいは連作ではなく、このようなエッセイ集というのは、この著者には多くない。3作目である。
 
前の二つ「バーボン・ストリート」、「チェーン・スモーキング」も読んでいるが、今回はより著者の頭の中で発酵してでてきたという感がある。ただそれで、こちらつまりファンからすると、読み進む快感から少し遠くなったようにも思える。
 
中であげれば、高峰秀子の晩年を書いた「挽歌、一つ」だろうか。
 
ところでこの「ポーカー・フェース」というタイトルは、前の二つがあまり著者自身とそぐわないのにくらべ(確か沢木はタバコを喫わない)、そのイメージにあっている。この本でも、ギャンブルにはなじんでいないといいいながら、バカラは例外として書いたものがあるが、以前にもマカオやラスヴェガスだったか、ギャンブルについての詳細な観察があった気がする。
 
やはり次は、何か一つのテーマを追いかけたずっしりしたものを期待したい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グラン・ブルー

2012-01-27 16:51:32 | 映画
「グラン・ブルー  完全版‐デジタル・レストア・バージョン 」
(LE GRAND BLEU : VERSION LONGUE、1988仏・伊、169分)
監督:リュック・ベッソン、撮影:カルロ・ヴァリーニ、音楽:エリック・セラ、製作顧問:ジャック・マイヨール
ジャン=マルク・バール(ジャック)、ジャン・レノ(エンゾ)、ロザンナ・アークエット(ジョアンナ)
 
公開されてからしばらくして、随分評判が高い映画だったようだが、タイトル名以外特に記憶はなかった。
フリー・ダイヴィングで有名な実在の人物ジャック・マイヨールとその好敵手で友人のエンゾ・モリナーリの交流をもとにして、脚色された物語。
完全版はかなり長いが、やはり海のシーンを存分に見せたいということだろうし、そうであれば劇場でということにはなるのだろう。特に素もぐりの深度記録を競うところは、ルールが決まっていて、それに厳しく沿って行われるせいか、垂直の動きが装置と支援ダイヴァーとともに出てくるだけで、イルカと戯れるシーンに比べると、いささかインパクトに欠ける。
 
二人は子どものころにギリシャの島で、それぞれフランス人とイタリア人として出会う。そしてそのとき、その時代だからか古い機材を使うダイヴァーであった父親が目の前で事故で死んでしまう。それを助けるために飛び込もうとしたジャックは大人たちに抑えられ、それをエンゾは見ている。
 
このシーンはまた最後に思い出されるが、冒頭からここまでだけは(このあと二人は大人として出てくる)、モノクロで撮られていて、こういうギリシャの海と港町の空気を実に雄弁に表出している。
 
父と別れたジャックの母親(登場しない)はアメリカ人で、母国へ帰ったという設定。そしてジャックが南米の凍った湖での仕事でアメリカ人ジョアンナと出会うシーンがいい。
 
ジョアンナからすると、好きなジャック、その友人エンゾ、ジャックを最後までとらえて離さない海とイルカ、これが問題で、この関係でドラマと事件は起こっていく。 
 
ラストシーンは、よくわからない。見る人が考えればいい、というしかないのだろう。表現者としてのベッソンはそこまでしかやっていないが、一つ踏み込んでもよかったのではないか。
 
ジャックからすると、母なる海ではなく、海は彼の父であって、母とジョアンナがむしろ人間社会、他人とのコミュニケーションの象徴である。と考えれば、面白い映画である。
 
ジャック役のバールは異星人的な雰囲気で、このキャラクターに合っている。それに対して俗人という雰囲気のジャン・レノもいいが体のスタイル、風采がダイヴァーというにはちょっと違和感もある。
ジョアンナのアークエット、ここで求められているアメリカ女の役には、終幕まで見てぴったりだなと気づかされた。
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロメオとジュリエット(グノー)(メトロポリタン)

2012-01-23 12:16:43 | 音楽一般
グノー: 歌劇 「ロメオとジュリエット」
指揮:プラシド・ドミンゴ、演出:ギイ・ヨーステン
アンナ・ネトレプコ(ジュリエット)、ロベルト・アラーニャ(ロメオ)、ロバート・ロイド(神父)、チャールス・テイラー(キャプレット)、マーク・ヘラ―(ティバルト)、ネイサン・ガン(メルキューティオ)、イザベル・レオナード(ロメオの小姓ステファーノ)
2007年12月15日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場  2012年1月 WOWOWで放送
 
人気はあるようだが聴くのも見るのも初めてのオペラ。
「ロメオとジュリエット」はシェイクスピアだから人気があるのだろうが、よく考えてみると若い二人が表面的に一目ぼれし、いがみ合う両家の反対から結ばれるのは困難となるが、情熱にほだされた神父が案じた一計で「間違いの悲劇」となる、しかもそれがきわめて短い時間内で進行する、というものである。
 
これで演劇として感銘をうけるのはほとんど不可能である。だから、オペラ、ミュージカル、バレエなどで演者の魅力をたっぷり見せることにむしろ力点がいった形が好まれるのだろう。
 
このグノーのオペラも、聴き終わって耳について離れないというほどのメロディーの魅力には欠けるけれども、主役二人の美声と、二人を中心にした場面に酔いしれて一晩楽しむには好適といえる。メトロポリタンならなおさらである。決してここの悪口を言っているのではない。
 
そしてここでの中心はジュリエットで、ほとんど出ずっぱり、歌う時間もながく、可憐なヒロインにしてはイゾルデ歌手なみ(?)と思ってしまうパワーを要求される。ネトレプコはそれに十分こたえているし、長い黒髪の容姿も似合っている。
ロメオのアラーニャは歌唱ならいいけれども、そしてテノールとしては外見は二枚目であるけれど、突っ走るロメオとはちょっとイメージがちがう。
 
ロメオの小姓ステファーノとして一場面の冒頭を担うイザベル・レオナードは、キュートな容姿、シャープな歌唱と動きで人気がありそうだ。いずれケルビーノなんかやるのだろうか?
 
指揮はドミンゴ、歌う側で出たこともあるそうで、こういう作品には合っているのだろう。今回で評価はできないが、出演者をうまくまとめていく能力はありそうだ。
 
驚いたのは舞台装置、二人が内密に結ばれる新婚のベッドが宙吊りで出てくる。客席から拍手というのもちょっと恥ずかしいが。
この上で、二人がラブシーンを演じながらかなり長い二重唱を歌う。ライブ・ビューイングでは客席と異なり天井からのカメラで見ることが出来る。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕のコダクローム (ポール・サイモン)

2012-01-20 16:33:50 | 音楽一般
米国イーストマン・コダック社が破産法を申請した。
これでフィルムメーカーは世界で実質的に富士フィルムだけとなる。
  
これから撮られる写真は、今のデジタルカメラであれば、もう性能的にほとんど問題はないけれど、これまでの膨大なフィルム資産を生き延びさせるためには、それをデジタルスキャンすればいいというわけでもなくて、新しいフィルムを使ったオリジナルからの修復とかいくつかの分野があるから、困るところは出てくるだろう。富士フィルムの生産継続も限られた種類だし、フィルムの特性がちがう。 
 
思い出して、久しぶりに「僕のコダクローム」(Kodachrome)を聴いてみた。サイモンとガーファンクルが解散したのち、ポール・サイモンが出した2つ目のアルバム There Goes Rhymin' Simon の最初に入っている曲である。
 
コダクロームは1935年にコダックが発売した35ミリカラーフィルムで、これから一般の人たちがカラー写真を楽しめるようになっていった。この曲でもコダクロームは若いころの美しいイマジネーションを象徴するものとなっている。
ところで、歌詞のなかでコダクロームを入れたカメラはNikon(ナイコンと発音されている)だが、ニコンはフィルムカメラの生産を既にやめており、デジタルカメラとその他の事業で生き残っている。 
 
今聴いているアルバムは1973年に発売されたLPレコード、ジャケットはとってもきれいなイラストで、まさにポール・サイモン若き日のイマジネーションそのもの。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする