メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

尾形光琳 燕子花図

2019-04-29 16:36:25 | 美術
特別展 尾形光琳の燕子花図 -寿ぎの江戸絵画-
2019年4月13日(土)-5月12日(日)根津美術館
燕子花が見られるのはこの季節ひと月ほど、何回か行っているが、5年ぶりになる。
 
やっぱりいいなあという以外、特に付け加えるところはないけれど、細かいところで少し。
この屏風、六曲一双だが、一目でわかるように、右側の六曲はリズム感が強調されていて、ダイナミックである。それに対して左側はしっとりしていて、全体として落ち着きを与えている。
 
そう考えて思い出したのは、2月に熱海のMOA美術館でこれも期間限定で見た光琳の「紅白梅図屏風」(国宝)で、これは中央の水の流れに大変な存在感があるが、右の紅梅と左の白梅を比べると、やはり紅梅が力のこもったダイナミックな形を見せ、白梅は洗練され落ち着いた美しさがある。じっくり見るとここでは白梅に時間を奪われるのだが。この左右の対照は光琳に特有なのか、偶然なのか、この種の絵の定石なのかはわからない。
 
それと離れてみると、藍の色の鮮やかさが際立つ。藍銅鉱(らんどうこう)という岩絵の具らしい。おりしも美術館の庭の池に燕子花が咲いていたが、いい天気だったせいか、こちらはもう少し明るい紫という感じだった。
 
今年また行ってみようと思ったきっかけの一つに、紙幣のデザインがいずれ変わるというニュースがあった。なかでも今の五千円札は大変好きなもので、樋口一葉とこの燕子花の組み合わせはとてもセンスがいい。絵を見ながら、お札を取り出し確かめてみたら、右側六曲の左から三曲が使われていた。


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ピアノ発表会

2019-04-22 21:31:11 | 音楽
ピアノのレッスンを受けているところの今年の発表会に参加した。
 
いわゆる大人のピアノの範疇だが、私が習っている区分はジャズピアノ、今回は「Fly me to the moon」と「I love Paris」。
 
「Fly me to the moon」はボサノヴァでやることも多いが、今回は私にとってはやりやすいスウィング、アドリブはブルーノートを基本にしたものにしたが、しょっと複雑にしすぎたかもしれない。それでも繰り返し出てくる主旋律の弾き方のヴァリエーションなど、ミスタッチはいくつかあったが、途中止まらないでなんとか弾き終えた。
 
「I love Paris」は、楽譜を見ると旋律線もシンプルだし、コードの数も少ない、ということから、自由にいろんなことやることができていいかなと思い、選曲したもの。作曲はコール・ポーターで、練習してみるとシンプルな楽譜のわりに、なるほどと思わせるところもいくつかあり、練習・仕上げも気持ちよくできた。アドリブから本来のメロディーがふたたびあらわれて進むところ、パリの春、秋ときたそのあと、冬の部分にあの「シェルブールの雨傘」を入れてみた。練習の過程で、ふとこれが思い浮かび、コードも合いそうだったし、「雨がしとしと降る冬」の歌詞も、うまくはまると感じたからであった。
昨年末にこうしようと思ったのだが、作曲者ミシェル・ルルグランが1月になくなり、結果として追悼になった。
 
驚いたのはこの曲、私の先生も含め50人くらいのうち知っている人がひとりもいなかったこと。1950年代に映画にも使われ、それなりに知られていると思っていたのだが。
演奏は2曲とも、ミスはあったものの、つっかえて止まってしまうことはなく、練習どおりではないにしても、まずまずだったと思う。
 
会場は原宿のhall60(ホール・ソワサント)という、文字どおり60人くらい入る新設の小さいホールで、バックヤードがほとんどなくて運営がきついものの、音響などはよかった。ピアノは多分かなり新しいスタインウェイ、特に中音域がきれいで、タッチも軽く、練習はほとんどできなかったから、音にとまどうことはあったものの、全体として音の仕上がりはよかった。ただ、軽く柔らかいタッチは、慣れてないことから、弾いているうちにはやくなってしまったと思う。ほかの人たちも同じことをいっていたから、これは今回の経験知。

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「黒いオルフェ」のラスト

2019-04-05 11:24:30 | 映画
一つ前にアップした映画「黒いオルフェ」について、少しあとになって気がついたこと。
 
ラストシーン、つまり子供たちを撮ったところの少し前、オルフェが最後に登場するシーンだが、よく考えてみればあれは、オルフェが「後ろを振り返った」からでなく「後ろを振り返らなかった」から起こったことで、それは脚本、監督とも意識してやったことだろう。
 
神話から現実社会にもってくるという狙いだと考えられる。

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黒いオルフェ

2019-04-02 17:03:29 | 映画
黒いオルフェ(ORFEU NEGRO、1959仏・葡萄牙、107分)
ポルトガル語版
監督:マルセル・カミュ 原作・ヴィニシウス・デ・モラエス
音楽:アントニオ・カルロス・ジョビン、ルイス・ボンファ
ブレノ・メロ(オルフェオ)、マルペッサ・ドーン(ユリディス)、ルードレス・デ・オリヴェイラ(ミラ)、レア・ガルシア(セラフィナ)
 
私がものごころついた頃、公開され、評判になったのは覚えていて、なによりここで使われている「カーニヴァルの朝」がヒット・チャートの上位にもなった。もっともその時は曲名も「黒いオルフェ」とされていた。
その後、半世紀以上経って初めてみることになった。モノクロと思っていたが、カラーでカメラはリオのカーニヴァルをみごとにとらえている。
  
地元でいやな男に付きまとわれ、カーニヴァルの前日、従姉をたずねてリオの港についたユリディス、恋人ミラと結婚目前のオルフェオと偶然会い、彼女の従姉はオルフェオ、ミラと知り合いで、いつのまにか二人は恋人同士になる。
ほぼ全編、前半は前日に皆がダンスの練習に明け暮れるサンバのリズム、夜明けのわずかな時間を経て、再度本番のサンバ、これが耳につくわけだが、そんななかでのストーリーの進行に違和感や不快感はなく、快感も心配も、同情もすべてそのリズムに乗って進んでいく。
 
二人の名前から連想される伝説のとおりにいくかと思うと、あの「ふりかえったら、、、」の台詞は使われるのだが、そのとおりではない。別の形の悲劇となるが、それでもカーニヴァルとブラジル、リオというものの激しさ、悲しさ、美しさが重層的に見る者に効いてくる。
 
それでも、最後、生を肯定して終わっていくのは、監督の視線が主人公たちの近くにいた二人の少年たちを通した部分があるからだろうか。
 
音楽はやはり、少年がオルフェオに教わりギターを弾いてみる「カーニヴァルの朝」(ルイス・ボンファ)、そしてサンバの細かいリズムを背景にそれとは対照的な「フェリシダージ」(悲しみには果てがなく、しあわせには終わりがくる)(アントニオ・カルロス・ジョビン)が印象的で、この二曲が映画を離れても、いろんな形でいまでも好まれているのはもっともである。

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沢木耕太郎 「作家との遭遇」

2019-04-01 14:17:28 | 本と雑誌
作家との遭遇 沢木耕太郎 著  新潮社(2018年11月)
 
著者の本としてはめずらしい作家論集で、先の全エッセイ「銀河を渡る」と似た体裁で続いたものである。
 
この中には著者の言及対象になっているのを知っているものもあるが、私と同世代にしては貸本屋によくおかれていた剣豪小説をむさぼり読んでいたことから出てきた、おやっと思うものもある。
 
作家論といっても、文芸評論というよりは、著者がスポーツ選手について取材しその人物像を描いていく、という行為、スタイルに近い。それで読む方もかなり落ち着いて読むことができるのかもしれない。
 
このなかで、檀一雄、山本周五郎についてはこれまでもかなりの言及があることを知っているが、意外な人選もあり、物書きとしてはくせがあるというか面白い人たちも多い。田辺聖子、色川武大、吉行淳之介、瀬戸内寂聴など、、、
一方、小林秀雄はなんと本流の対象に見えるが、うまく本質をついていると言えるだろう。そのほか、ここで作家たちの一面を知り、これからのひまな時間、読んでみようと思ったものがいくつかある。
 
そして意外なことに最後にあるのは、アルベール・カミュである。これは大学の経済学部に在籍していた著者が卒論として選んで提出してしまったものである。タフなルポライターとはいえ、こういう強引さが青年期からあったというのは意外であった。
 
さてそのカミュであるけれど、実は私も高校時代から「異邦人」、「ペスト」ときて、なにかこれは他と違うものがあると感じ、哲学論の領域である「シーシュポスの神話」、「反抗的人間」に挑戦したが、引用されている詩、哲学書など、とても歯が立たないまま、そこは勝手に想像で読み進まざるをえなかった。結果として何人かの人たちがカミュについて言及していることを眺めると、要点の受け取り方としてはまちがってはいなかったように思われた。それは今回の著者の著述でも確認できたことである。
しかし著者は、同じ世代でこの若い時期に、翻訳されているもの全部を何度も読み通したと思われ、その姿勢、体力には驚かされた。
 
ここにとりあげられたものには、文庫化されたときの解説として書かれたものががいくつかあるけれど、その際は作家の作品をほぼ全部読んで書いているらしく、これも著者からすれば当然とはいえ、そういうものかと感心した。



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