メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

RURIKO(林真理子)

2008-07-26 18:07:09 | 本と雑誌
「RURIKO」 林真理子著 (2008年5月、角川書店)
 
RURIKOは浅丘ルリ子である。このスターが生まれてから今日までを、ほぼ時系列に、家族と映画を中心とする芸能界のそんなに多くない人たちとの間のエピソードをもとにした半生記としている。
 
この内容、書き方からすると、相当の裏づけはあったであろうが、浅丘ルリ子本人にインタビューしたかどうか、それは不明である。
 
一読して彼女は、恋多き女ではあるが、あまり破滅的な走り方はせず、さばさばしたところもあり、そのあたりは不思議だが、男からすると好感を持たれるタイプだろう。ファム・ファタルのようでいてそうではない。
 
だから本書を読んでいて彼女の人生に共感をいだくよりは、登場する石原裕次郎、北原三枝、小林旭、美空ひばりなどの話が、当時の日活映画全盛時の世相、風俗の念入りな描写と相まっておもしろく、巻置くあたわず読み進んでいた。
 
林真理子にとって、この世界は好きなはずだし、だから話に勢いがある。
 
裕次郎のデビューから全盛までは、私の小学校終盤であるから、歌謡曲今週のベストテンという類の番組で、彼の歌は覚えてしまっていたし、中学に入ると、学校で話にでる今でいうアイドルは、裕次郎に続く日活の若手俳優たちであったから、にやりとする箇所は少なくない。
 
小林旭と浅丘ルリ子との間柄はここまで詳しく知らなかったけれど、読んでいてなかなかいい関係だったなと思わせるところが多い。作者がこうあってほしいというところもあるだろうし、二人とも存命であるから手加減もなくはないだろうが、それでもほっとする。
 
美空ひばりと浅丘との交流は知らなかった。もっとも私にとってひばりは苦手だから興味なかったのかも知れない。
 
この本を読んだきっかけの一つは、彼女と甘粕正彦との関係である。最近、甘粕についても新しい本が出て、書評によるとこれまでの虐殺犯というイメージの復権も含め見直されている。本書のある書評で、彼女が4歳のときに父親が満映に務めていた縁で、そこのトップであった甘粕に可愛がられ、彼は将来のスター女優を予言した、ということが触れられていた。
それでなおさら、興味を持ったということもある。
 
一つ不満というか欠陥をあげれば、たくさん出てくる映画の製作か公開の年を入れて欲しかったことである。ネットで調べればわかるし、数人の主人公の生年をメモしておけば推定は可能なものの、スムースに読み進む上では必須データである。

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天然コケッコー

2008-07-24 10:05:29 | 映画
「天然コケッコー」(2007年、121分)
監督:山下敦弘、原作:くらもちふさこ、脚本:渡辺あや
夏帆、岡田将生、夏川結衣、佐藤浩市
 
山村の小学校と中学校あわせて6人、そこに家族がわけありで東京から男の子が転校してくる。中学2年生で、主人公の女の子(夏帆)にとっては初めての同級生だ。
 
物語は中学2年夏から高校入学まで、子供達のあいだの、大人たちもまきこんだ日常、小さなトラブル、二人の恋心、生徒二人と先生たちの東京への修学旅行などを、淡々と描いていく。
 
この映画が他と違うのは、いくつかの兆候から一つの大きな結末に突き進むことがなく、一つ一つの問題についてテンションが高い場面には移らずフェードして次の場面になり、見ているものはその結果を自然に知るという手法を多用していることである。
 
その結果は、この世の中の多くのひとたちのケースでは受け入れられるものであり気持ちのいいものである。しかし、それだからストーリーとして平凡でつまらないということはなくて、最後まで見てしまうのである。
 
知らなかったが、この原作はかなり人気があった連載コミックで、そこでは村の多くの登場人物に多彩な役割が振られているらしい。そうであれば、こういうエピソードの連鎖ということも肯ける。
 
クレジットを見て気がついたのは、脚本があの「ジョゼと虎と魚たち」(2003)、「メゾン・ド・ヒミコ」(2005)などの傑作をものした渡辺あや、ということ。
前二作ほど才気ほとばしるという感じでないのが、むしろこの人の力を感じさせる。
 
夏帆はほぼ主人公と同年齢、こういうチャンスにめぐり合ったことが今後どう生きるか。
登場人物からよく出てくる「おおきに」から、京都に近い日本海岸を想像したが、原作もロケも島根県浜田市付近のようである。

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ラブソングができるまで

2008-07-20 11:03:44 | 映画

「ラブソングができるまで」( Music and Lyrics 、2007年、米、104分)
監督・脚本:マーク・ローレンス
ヒュー・グラント、ドリュー・バリモア、ヘイリー・ベネット
 
初共演とはいえこの二人でコメディを作れば水準以上のものは出来るだろうとは、想像できた。期待より上であったのはなにより。
 
一世を風靡したロックグループのその後はあまりさえない片割れと、小説家の踏み台にされたトラウマを持つ娘が偶然出会い、アイドル歌手に提供する曲を作曲、作詞で一緒に模索するなかで、立ち直っていくのを、曲作りの中身、プロセスをうまく絡めながら進行させていく。だから、予定調和でおそらくこうなるであろうという結末は想像しながら、飽きずに最後まで見ることができた。
 
しかも、そのフィナーレは、見るものをちょとかわし、手がこんでいてうまい。
 
タイトルとクレジットがしゃれている。ヒューの動きは、「ラブ・アクチュアリー」でイギリス首相役(トニー・ブレアを想定?)の彼が「Jump」にあわせて踊っていたのを思いださせた。


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トリスタンとイゾルデ(映画)

2008-07-18 18:51:59 | 映画
「トリスタンとイゾルデ」(Tristan + Isolde 、2006年、米、125分)
監督:ケヴィン・レイノルズ、脚本:ディーン・ジョーガリス
ジェームズ・フランコ、ソフィア・マイルズ、ルーファス・シーウェル、トーマス・サングスター
 
かなり重くて暗い映画かと想像してしまったのはワーグナーによる楽劇の先入見があったのだろう。考えてみれば、あのストーリーは音楽のためにあるからあれで成立するので、そのまま映画ではあまりに単純すぎる。
 
トリスタンとイゾルデは中世に様々な形で伝説として、恋愛詩と広まっていたという以外、知っていることはないので、この脚本がそれらをどう扱ったものかもわからない。
 
それでも、この映画では叙事的な面をしっかり描いているから、話としては不自然でない。マーク王(マルケ王)の描き方もワーグナーよりはむしろ自然だろう。
 
イゾルデはここでも薬草の使い手だが、媚薬は登場しない。そうしたらドラマにならないが、ワーグナーの場合、音楽に集中させるにはそのほうがよかっただろう。
 
ドラマとしてはまずまず、ケルトの世界を背景にした緑がかぶった色調、装置、衣装など、また夜のシーンが多いカメラなどは、及第点だ。
 
主演の二人、トリスタンはミスキャストでないにしても上背がもう少しほしかった。イゾルデはヒロインとして見かけが地味だが、男をリードしていく演技はなんとかこなしている。
 
トリスタンの幼年時役トーマス・サングスターは、名作「ラブ・アクチュアリー」(2003)でドラムをたたき空港で追っかけ劇を演じたあの少年である。

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カンバセーションズ

2008-07-16 22:30:44 | 映画
「カンバセーションズ」(CONVERSATIONS WITH OTHER WOMEN、2005年、米・英、84分)
 
監督:ハンス・カノーザ、脚本:ガブリエル・ゼヴィン
ヘレナ・ボナム=カーター、アーロン・エッカート
 
結婚パーティで、出席にあまり気乗りがしなかった40歳手前の男女、昔の恋人同士で、偶然に再会したことから、舞台劇のような会話が始まり、男は未練があり、しだいにしつこくなっていく。女の方は最初うまくいなしていたのだが、どうもそうでもないようになっていく。
 
やはり、主導権を渡さないうまさは女にある。そしてこの話が、昔の二人の間にあった真実、誤解、あやまち、それが今になり見方を変え、成長した大人の恋として蘇る、なんてことではなく、男女って、人間って、大人になっても未練たらたら、エゴイスティックで、相手と今のパートナーとの関係を出来れば壊したいと思っている。それがわかっていながら、すぐにやめるというわけにはいかない。
 
そう、現実の関係ってこんな側面が多いだろう。
そしてそれを面白く見せるとなると、工夫が必要ということだろうか。ほとんど全編で、デュアル・フレームという左右に別カメラの画面が二つの正方形で並ぶという方式を使い、二人の会話では、お互いを見るようにしたり(なんか落語のようだ)、話に出てくる過去を写したりしていて、慣れると悪くないし、効果はある。
 
そう、大人になってもこうなのだ。
ただ最後のところ、画面を注視するとデュアルがデュアルでなくなったように見えるけれど、このストーリーの結末はどうなのか、どちらともとれる脚本ではある。それは意図的なのだろうか。
 
ヘレナ・ボナム・カーターは、見かけよりも不思議な魅力をもった女、そして結果としてはファム・ファタル、というのははまり役といってもいい。ここでもどうしてという謎を最後まで秘めている。
アーロン・エッカートの演技もさえていて、男の弱さ、いじましさの表現がうまい。

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