メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

マスカレード

2016-02-29 17:46:54 | 音楽
レッスンを受けているピアノ関連のローカルな発表会があった。習っているのはジャズ・ピアノだが、これはクラシック、ポピュラーも含めて同じ先生の生徒たちが対象。
 
昨年11月の正規発表会でやったボサノヴァのDesafinado(アントニオ・カルロス・ジョビン)を今回はトリオでなくソロで歌いながらやったのと、もう一つはマスカレード(This Masquerade)(詞・曲レオン・ラッセル)で、これはメインがアルト・サックス(本来はピアノの生徒)、そこに私はほとんど左手でボサノヴァのリズムを刻み、16小節だけアドリブが入る。他にギターとベース(いずれもエレキが加わった。
 
あらかじめ作っておいたアドリブの譜面はよくできていたはずなのだが、本番は大分はずしてしまった(しかし、本人以外はあまり気づかないものらしい)。リズム刻みはかなり良くできたようで、一応きめていたワン・パターンで初め、その場で合わせているうちに遊んでみたくなるところは適当に遊ぶことができて、満足だった。
 
この曲、男女の本当にはわかりあえない、それでも別れられない、もどかしいlonely game を歌っていて、あらためて集中してつきあってみるとなかなか味わいが深いよくできたものである。歌もつけてみたかったが、用意された譜面がおそらくカーペンターズのものと同じものだったようで、あのカレンの低いキーは私には無理とわかり、断念した。
 
借りたホールのピアノはスタインウェイ、今回のものは特にタッチが軽く、軽すぎといったらいいか、私の腕ではすぐに対応というわかにもいかず、黒鍵は滑りやすかったりして、全体としてはいい出来にはならなかった。

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英・EU問題と「ギリシア人の物語」

2016-02-21 15:23:38 | ノンセクション
ギリシア人の物語Ⅰ」(塩野七生)を読んでアップしたばかりのところに、イギリスがEUにこのまま残るか離脱するかについて、EU全体に対し改善案(イギリスから見て)を提案、これはちょっと無理かなと思っていたら、それが採択された。イギリスではEU残留の是非について国民投票が予定されていて、今回の動きは、現政権がそれに備えて手を打ったもののようだ。しかし、これが一応うまく行ったとはいえ、投票の結果は予断を許さないともいう。
 
この比較的短い期間の動きを見ていて、国際政治の世界にこういうことがあるもんだと、少し驚いた。冷静といえば冷静、自分たちのエゴと、全体の安定・便宜、短期と長期、そのほかいろいろ考え、軍事的な動きもなしに、これが政治というものなのだろうか、そういうかけひきが行われた。
 
なにか、ギリシャの都市国家間の政治的かけひき、都市国家を成り立たせているその国内の政治、こういうことを思い起こさせる。やはりギリシャがヨーロッパの起源、それが伝統になっている、というのは単純すぎ、乱暴すぎなんだろうが、こうして重ね合わせ考えてみることも面白いし、意味がなくもないことだろう。

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ギリシア人の物語Ⅰ民主政のはじまり(塩野七生)

2016-02-19 21:24:29 | 本と雑誌
ギリシア人の物語Ⅰ民主政のはじまり  塩野七生 著 2015年12月 新潮社
 
「ローマ人の物語」全15巻(これは一通り読んだ)の完結から約10年、「ギリシア人の物語」(1年1巻で全3巻)が出てくるとは思わなかった。著者はローマが好きなこと、特にカエサルが好きなことは、よく書いているからこっちも納得している。だからギリシアはなぜ、ということだが、読者のこの反応は著者も予想したようで、巻頭に、まずローマのはじまりあたりで簡単にふれただけではギリシアに失礼ということ、そして民主主義、民主政、それとリーダーとのかかわりなどについて、その起源とされるものを踏まえたうえで、意見を述べたいということがあったようである。後者は読み始めて、いくつかのところでその視点として感じることができた。
 
本書は紀元前8世紀ころのいくつかの都市国家のはじまり、オリンピック、スパルタの「リクルゴス」憲法、アテネのソロンの改革と進むが、そのあとの著述のほとんどは前490年~480年のペルシア戦役である。ここではマラソンの起源になったマラトンの戦い、テルモピュレーの戦い、サラミスの海戦、プラタイアの戦い、デロス同盟、と興味をよぶ話は多いし、特にペルシア王ダリウス、クセルクセス、アテネのテミストクレス、スパルタのレオニダス、パウサニアスという英雄たちの話は面白さに事欠かない。
 
そしてこのペルシア戦役を耐えて勝ち抜いたこと、しかも複数の都市国家が独立性というかエゴイズムを持ちながら、全体としてペルシアにうまく対抗し、またそれぞれの都市国家が、必ずしも今の平等な民主主義ではない形態で、しかも寡頭制と期間限定の独裁制などを取りながら、意図してか結果としてかわからないところはあるものの、うまくいった。それはローマも知りうるところとなった、そして、ということだろうか。
 
ローマに比べ、記録、資料、(活躍した人の)像などが不足しているから、面白い話にするには不便もあっただろうが、これまでよく知らなかったギリシアについて、興味を持つことはできた。
 
一つ、ここに出てきた英雄たち、この体制が作り出した、必要としたともいえ、困難な事態を読みきり、相手の上を行く戦略を立て、戦局を有利に進めていくのだが、最後はそれをじっと見ていた、そしてねたんだ寡頭の人たちによって気の毒な末路をたどる。テミストクレスについて、そうでもないところも少しはあるのが、読後多少の安堵感となった。





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WATER (エレーヌ・グリモー)

2016-02-18 10:07:28 | 音楽
「WATER」ピアノ:エレーヌ・グリモー(Helene Grimaud) 2014/2015 ドイツ・グラムフォン
ブラームスの協奏曲から久しぶりのアルバム。あるコンセプト、あるいはテーマでアンソロジーを作ることはめずらしくないが、そのアルバムのタイトルにしてしまうというのは、クラシックではあまりないように思う。
 
だからこれは個々の演奏を聴いてもらうことばかりでなくて、全体として何か受け取ってほしいという彼女の欲求であるのだろう。その結果はもう何度か聴いてみないと、こちらにもはっきりしてこないが、聴いていてここちよいことは確かだし、彼女のセンスは感じさせる。
 
べリオ、武満からはじめて、フォーレ、ラベル、アルベニス、リスト、ヤナーチェック、ドビュッシーで、この中で20世紀にかかってないのはリストだけだからほぼ「近現代」であるが、水のコンセプトであればこうなるのかなとは思う。リストも「エステ荘の噴水」で、ここに入って違和感はない。なかで、初めて聴くヤナーチェックの「In the Mists:No.1」はとても印象深かった。
 
一つ一つの演奏は期待どおりだが、欲を言えばもう少しピアノの音がオンになるような録音であってほしかった。このアルバムだと聴く方がもっと包まれてしまうほうがいいと思うのだが。
 
もう一つこのアルバムの特徴は、曲と曲の間にTransitionという1分半くらいの作品が挿入されていること。これはニティン・ソーニー(Nitin Sawhney)という人の自作・自演(キーボード/ギター/プログラミング)によるものである。はじめは何か変な感じだったが、再度注意して聴くと、次にグリモーが弾く曲へのイントロダクションになっていないこともない。たとえばラベル「水の戯れ」の前のもの。
 
それなりの高い評価を得ているピアニストであってみれば、こういうアルバム作りに否定的な意見も予想されるが、このアンソロジーをリサイタルでやるとすると、おそらく退屈というか、時間の起伏にとぼしい感があるだろうから、クラシックではあまりやらないが奏者のトークをはさむとかすることになる。録音アルバムにするとすれば、一つの解がこれということなのだろう。
なおソーニ-の録音は2015年で、ピアノ録音の次の年である。

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フランク・シナトラ 生誕100年トリビュート

2016-02-16 09:57:18 | 音楽
フランク・シナトラ 生誕100年 トリビュート・ライヴ 2015年12月2日 ラスヴェガス 2016年2月 WOWOW
 
長いことシナトラファンだから、昨年が生誕100年ということは知っていたが、なぜか日本ではあまり話題にならなかった。
それはともかく、こういうイべントがあって不思議はない。
 
ただ100年ともなると、一緒にやった人でここにいたのはトニー・ベネットとクインシー・ジョーンズのほかに誰がいたか、、、そのクインシーも下半身は映さなかったがたしか車椅子のはずで、当日指揮はしなかっただろう。
 
シナトラ生前の映像を適宜挿みながら、歌手はセリーヌ・ディオンをはじめ今の人気、実力を兼ね備えた人たちが次々と登場したのだろう。なぜこういう言い方かといえば、聴けば皆立派な歌手だが、彼らの名前はあまりよく知らない。
 
ところでこうしてシナトラを思い出しながら彼ら、彼女らを聴いていると、ほんとうにうまい「歌」とはなんだろうと思うのだ。この人たち、声楽用の楽器としてのいい声帯、からだを持ち、それを作り上げ、その楽器の演奏は素晴らしいのだが、はて、これは歌なんだけけれどという思いは常に頭に浮かんでしまう。
 
シナトラはちがうのだ。歌詞から入っていって、彼の楽器はそのためにどう使うか、決して楽器演奏のうまさに走るそぶりは見せない。あの魅力的なくずしというかフェイクも詩の流れから出てくる。
 
考えてみれば彼がデビューしたころは、マイクをうまく使うことに流れが向いていたわけで、そういう「クルーナー」のアイドルだった(もっともちょっと低めのテノールという感じだから、クルーナーという言い方は似合わないとは思う)。そのあとアイドルから脱していったわかけだが、そういう道すじは幸運だったと考える。いい意味での軽さは生涯変わらなかった。
 
その意味では、最後に出てきて「ニューヨーク・ニューヨーク」を歌ったレディー・ガガが、歌詞への距離感でこの場にふさわしい感じがした。
そしてこの歌の紹介で、ニュージャージーで生まれたシナトラは対岸のニューヨークで活躍したいと願っていた、とあった。そう、シナトラもあの「ジャージー・ボーイズ」の一人だった。

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