ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(作品72)
指揮:ダニエル・バレンボイム、合唱指揮:ブルーノ・カゾーニ、演出:デボラ・ウォーナー
アニヤ・カンペ(レオノーレ)、クラウス・フォロリアン・フォークト(フロレスタン)、ヨン・グァンチョル(ロッコ)、ファルク・シュトルックマン(ドン・ピッツァロ)、ペーター・マッテイ(ドン・フェルナンド)、モイツァ・エルトマン(マルツェリーネ)、フロリアン・ホフマン(ヤキーノ)
2014年12月7日 ミラノ・スカラ座 2015年3月 NHK BS
フィデリオをしっかりと見るのも聴くのも多分初めてだろう。以前、TV放送でぼんやりと見たような気はするのだが。ベートーヴェン唯一のオペラであることが、むしろ敬遠させていたのかもしれない。他の曲はほとんど聴いているのに。
さて、2幕構成だが、大きくは3つに分かれる。吉田秀和の言い方を借りると、第1は日常生活における市民の表現、第2は市民が日常性の下にある現実のすさまじさに対面する段階、第3は愛にもとづく解放と救済、歓喜の爆発的頌歌ということになる。
私怨をもとにピッツァロが長となっている監獄に閉じ込められているフロレスタン、その妻レオノーレは夫を探してフィデリオという名で男装し、牢番ロッコの弟子として入り込み、その娘に惚れられる。この設定はオペラだからなんとかなるもの。
バレンボイムは番組冒頭で、この作品を政治的なメッセージを主にとらえるのは間違いで、希望の光を求めて邁進するレオノーレの姿を見てほしいといっていた。そして彼女が牢番ロッコを動かし、また囚人たちすべての解放に向かっていく、ということだろう。
ドラマとしてはロッコの変化が焦点なのだが、レオノーレが真っ暗な一人牢獄につながれている囚人(まだ夫とは気がついていない)を少し楽にしてやったらというが、ロッコは納得しない、それが数回続いたところで、少しならいいかと変わる。このところは台詞の流れからは何のしかけもなく、繰り返しだけだが、実はバックの管弦楽が動きを促し支えている。このあたりがベートーヴェンで、見事。
バレンボイムの指揮はいたずらにセンチメンタルにならず、じっくりと劇を描いていくもので、それだからこそフィナーレのドン・フェルナンドの登場(ベートーヴェンのこのデウス・エクス・マキーナはやりすぎなのだが)から解放の歓喜は特別なものとなった。
このフィナーレを聴くと、これがスカラであったのは良かったと感じる。このシーズンでバレンボイムはここの音楽監督を退くようで、その開幕公演というのもふさわしい。
なお序曲は通常のものではなくレオノーレ第2番(と表示されていた)で、初演時のものらしい。どう違うかは、聴き比べてみないとわからない。
ウォーナーの演出は、ドラマと音楽に集中できるもので、衣装を無理のない現代ものにしたのもよかった。この人、最近ではメトロポリタンの「エフゲニー・オネーギン」が記憶に新しいが、あの集中しやすかったタチアーナの手紙の場面を思い出した。
ところで「フィデリオ」が我が国で評判になったのは忘れもしない1963年ベルリン・ドイツ・オペラ初来日の初日、日生劇場杮落しである。指揮カール・ベーム、演出グスタフ・ルドルフ・ゼルナーで、クリスタ・ルードリッヒのレオノーレ、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウのドン・フェルナンドをはじめ豪華キャストは話題を呼んだ。ゼルナー演出は当時としては新しいタイプで、前記吉田秀和などいろんな人がいろんなことを書き、面白かったことを覚えている。見てはいなのだが、それでもこうして興味を持てたというのは、しあわせな時代だったのだろう。
ただ、冷戦時代の西ベルリンから来たわけだから、どうしても「政治的」解放というメッセージを受け取ってしまうこともあったにちがいない。
指揮:ダニエル・バレンボイム、合唱指揮:ブルーノ・カゾーニ、演出:デボラ・ウォーナー
アニヤ・カンペ(レオノーレ)、クラウス・フォロリアン・フォークト(フロレスタン)、ヨン・グァンチョル(ロッコ)、ファルク・シュトルックマン(ドン・ピッツァロ)、ペーター・マッテイ(ドン・フェルナンド)、モイツァ・エルトマン(マルツェリーネ)、フロリアン・ホフマン(ヤキーノ)
2014年12月7日 ミラノ・スカラ座 2015年3月 NHK BS
フィデリオをしっかりと見るのも聴くのも多分初めてだろう。以前、TV放送でぼんやりと見たような気はするのだが。ベートーヴェン唯一のオペラであることが、むしろ敬遠させていたのかもしれない。他の曲はほとんど聴いているのに。
さて、2幕構成だが、大きくは3つに分かれる。吉田秀和の言い方を借りると、第1は日常生活における市民の表現、第2は市民が日常性の下にある現実のすさまじさに対面する段階、第3は愛にもとづく解放と救済、歓喜の爆発的頌歌ということになる。
私怨をもとにピッツァロが長となっている監獄に閉じ込められているフロレスタン、その妻レオノーレは夫を探してフィデリオという名で男装し、牢番ロッコの弟子として入り込み、その娘に惚れられる。この設定はオペラだからなんとかなるもの。
バレンボイムは番組冒頭で、この作品を政治的なメッセージを主にとらえるのは間違いで、希望の光を求めて邁進するレオノーレの姿を見てほしいといっていた。そして彼女が牢番ロッコを動かし、また囚人たちすべての解放に向かっていく、ということだろう。
ドラマとしてはロッコの変化が焦点なのだが、レオノーレが真っ暗な一人牢獄につながれている囚人(まだ夫とは気がついていない)を少し楽にしてやったらというが、ロッコは納得しない、それが数回続いたところで、少しならいいかと変わる。このところは台詞の流れからは何のしかけもなく、繰り返しだけだが、実はバックの管弦楽が動きを促し支えている。このあたりがベートーヴェンで、見事。
バレンボイムの指揮はいたずらにセンチメンタルにならず、じっくりと劇を描いていくもので、それだからこそフィナーレのドン・フェルナンドの登場(ベートーヴェンのこのデウス・エクス・マキーナはやりすぎなのだが)から解放の歓喜は特別なものとなった。
このフィナーレを聴くと、これがスカラであったのは良かったと感じる。このシーズンでバレンボイムはここの音楽監督を退くようで、その開幕公演というのもふさわしい。
なお序曲は通常のものではなくレオノーレ第2番(と表示されていた)で、初演時のものらしい。どう違うかは、聴き比べてみないとわからない。
ウォーナーの演出は、ドラマと音楽に集中できるもので、衣装を無理のない現代ものにしたのもよかった。この人、最近ではメトロポリタンの「エフゲニー・オネーギン」が記憶に新しいが、あの集中しやすかったタチアーナの手紙の場面を思い出した。
ところで「フィデリオ」が我が国で評判になったのは忘れもしない1963年ベルリン・ドイツ・オペラ初来日の初日、日生劇場杮落しである。指揮カール・ベーム、演出グスタフ・ルドルフ・ゼルナーで、クリスタ・ルードリッヒのレオノーレ、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウのドン・フェルナンドをはじめ豪華キャストは話題を呼んだ。ゼルナー演出は当時としては新しいタイプで、前記吉田秀和などいろんな人がいろんなことを書き、面白かったことを覚えている。見てはいなのだが、それでもこうして興味を持てたというのは、しあわせな時代だったのだろう。
ただ、冷戦時代の西ベルリンから来たわけだから、どうしても「政治的」解放というメッセージを受け取ってしまうこともあったにちがいない。