メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ベートーヴェン「フィデリオ」(ミラノ・スカラ座)

2015-03-24 10:15:01 | 音楽一般
ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(作品72)
指揮:ダニエル・バレンボイム、合唱指揮:ブルーノ・カゾーニ、演出:デボラ・ウォーナー
アニヤ・カンペ(レオノーレ)、クラウス・フォロリアン・フォークト(フロレスタン)、ヨン・グァンチョル(ロッコ)、ファルク・シュトルックマン(ドン・ピッツァロ)、ペーター・マッテイ(ドン・フェルナンド)、モイツァ・エルトマン(マルツェリーネ)、フロリアン・ホフマン(ヤキーノ)
2014年12月7日 ミラノ・スカラ座  2015年3月 NHK BS
 

フィデリオをしっかりと見るのも聴くのも多分初めてだろう。以前、TV放送でぼんやりと見たような気はするのだが。ベートーヴェン唯一のオペラであることが、むしろ敬遠させていたのかもしれない。他の曲はほとんど聴いているのに。
さて、2幕構成だが、大きくは3つに分かれる。吉田秀和の言い方を借りると、第1は日常生活における市民の表現、第2は市民が日常性の下にある現実のすさまじさに対面する段階、第3は愛にもとづく解放と救済、歓喜の爆発的頌歌ということになる。
 

私怨をもとにピッツァロが長となっている監獄に閉じ込められているフロレスタン、その妻レオノーレは夫を探してフィデリオという名で男装し、牢番ロッコの弟子として入り込み、その娘に惚れられる。この設定はオペラだからなんとかなるもの。
バレンボイムは番組冒頭で、この作品を政治的なメッセージを主にとらえるのは間違いで、希望の光を求めて邁進するレオノーレの姿を見てほしいといっていた。そして彼女が牢番ロッコを動かし、また囚人たちすべての解放に向かっていく、ということだろう。
 

ドラマとしてはロッコの変化が焦点なのだが、レオノーレが真っ暗な一人牢獄につながれている囚人(まだ夫とは気がついていない)を少し楽にしてやったらというが、ロッコは納得しない、それが数回続いたところで、少しならいいかと変わる。このところは台詞の流れからは何のしかけもなく、繰り返しだけだが、実はバックの管弦楽が動きを促し支えている。このあたりがベートーヴェンで、見事。
 

バレンボイムの指揮はいたずらにセンチメンタルにならず、じっくりと劇を描いていくもので、それだからこそフィナーレのドン・フェルナンドの登場(ベートーヴェンのこのデウス・エクス・マキーナはやりすぎなのだが)から解放の歓喜は特別なものとなった。
このフィナーレを聴くと、これがスカラであったのは良かったと感じる。このシーズンでバレンボイムはここの音楽監督を退くようで、その開幕公演というのもふさわしい。
なお序曲は通常のものではなくレオノーレ第2番(と表示されていた)で、初演時のものらしい。どう違うかは、聴き比べてみないとわからない。
 

ウォーナーの演出は、ドラマと音楽に集中できるもので、衣装を無理のない現代ものにしたのもよかった。この人、最近ではメトロポリタンの「エフゲニー・オネーギン」が記憶に新しいが、あの集中しやすかったタチアーナの手紙の場面を思い出した。
 

ところで「フィデリオ」が我が国で評判になったのは忘れもしない1963年ベルリン・ドイツ・オペラ初来日の初日、日生劇場杮落しである。指揮カール・ベーム、演出グスタフ・ルドルフ・ゼルナーで、クリスタ・ルードリッヒのレオノーレ、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウのドン・フェルナンドをはじめ豪華キャストは話題を呼んだ。ゼルナー演出は当時としては新しいタイプで、前記吉田秀和などいろんな人がいろんなことを書き、面白かったことを覚えている。見てはいなのだが、それでもこうして興味を持てたというのは、しあわせな時代だったのだろう。
 

ただ、冷戦時代の西ベルリンから来たわけだから、どうしても「政治的」解放というメッセージを受け取ってしまうこともあったにちがいない。

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海老原喜之助展(横須賀美術館)

2015-03-18 17:39:50 | 美術
生誕110年 海老原喜之助 展
横須賀美術館 2015年2月7日(土)~4月5日(日)
 

海老原喜之助(1904-1970)については、洲之内徹(「気まぐれ美術館」など)の文章で知り、画商でもあったこの人が所蔵した「ポアソニエール」(1934)を、死後そのコレクションが寄贈された宮城県美術館で見たことがある。「ポアソニエール」はもちろん今回展示されていて、やはりこの画家の魅力をあらわしてあまりない。洲之内はこの絵の複製を初めて見たときのことを「こういう絵をひとりの人間の生きた手が創り出したのだと思うと、不思議に力が湧いてくる」と書いている。それは昭和18年、洲之内が中国山西省にいたときであった。
 

さて、数枚はみていたものの、こうして回顧展でまとめて見るのは初めてで、これはありがたい。若くしてパリに渡り、藤田嗣治に私淑したらしいが、筋のいい、ブルーを基調とした風景画、人物画が描かれた。ブリューゲルに発想を得たと思われる雪山、動物、樵、猟師などの絵でも、海老原の絵は全体のバランスと遠近法の加減だろう、見ていて気持ちよく中に曳き込まれていく。
時代、社会のきしみを反映した、というかそれを描かないとと思ったのか、そういう絵が多くなった時期でも、後期の代表作「船を造る人」(1954)などにはそういう特色は生きている。
 

ところで、横須賀美術館は初めてであるが、その立地、レストランからの東京湾出口の眺望など、評判はきいていた。まさにそのとおりで、東京からは多少離れているものの、ミュージアムの世界に集中することができる。10分ほど先までいくと観音埼で周辺の海や岸辺も美しく、灯台にも昇ることができ、絶好の天気もあって、行き交う船舶を眺めながら、気持ちよい空気にのんびりひたっていた。

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グランド・ブダペスト・ホテル

2015-03-16 20:26:19 | 映画
グランド・ブダペスト・ホテル(THE GRAND BUDAPEST HOTEL、2013英・独、100分)
監督・脚本:ウェス・アンダーソン
レイフ・ファインズ、F・マーレイ・エイブラハム/トニー・レヴォロリ(若き日)、エドワード・ノートン、マチュー・アマルリック、シアーシャ・ローナン、エイドリアン・ブロディ、ウィレム・デフォー、トム・ウィルキンソン/ジュード・ロウ(若き日)、ハーヴェイ・カイテル、ビル・マーレイ
 

今年のアカデミー賞の諸部門にノミネートされた中で、最も見たかった作品である。1930年ころ、オーストリアあたりを想定した架空の国の名門リゾートホテルを舞台に、そこの達人コンシェルジュが常連だった貴婦人不審死、その遺産争いに、コンシェルジュ見習いの少年とともに巻き込まれていく。この時代の政治、戦争などのうねりの中で、快調なテンポでペーソスを織り込んだコメディが仕立てられている。
 

場面が激しく動いていくし、男性有名俳優は多く出ているが髭が多いなどで、はてこの人だれだっけということもあり、ついていくのは大変である。舞台の書き割りみたいな背景も平気で出てくるし、長回しなどないし、今の映画とは随分ちがう画面で、回想シーンがメインの話だからか途中からほとんどビスタサイズになる。
 

でも、こういうものは映画、つまり編集が命の映画ならではともいえるのではないだろうか。
独裁主義体制の追求に追われるシーンでは、おとぎ話というか、インディー・ジョーンズのふざけたパロディみたいな感もあるし、有名ホテルのコンシェルジュ・ネットワークをうまく使ったのも見ていて気持ちいい。
 

監督のウェス・アンダーソンについて調べてみたら、「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(2001)があった。この群像劇と似ているところもあるし、共通する俳優もいる。
 

ところで、クレジットにシュテファン・ツヴァイク(1881-1942)とその著作にインスパイアされたとあった。特にツヴァイクの遺作である自伝「昨日の世界」に負っているところが多いと言われているようだ。実はこの数年、身辺断捨離の一環で蔵書の9割は処分したのだが、何冊かあったツヴァイク全集(みすず書房)は40年を経て生き残っていた。「昨日の世界」もその中にあるから、そのうち再読してみよう。映画も何度か見ないと見落としているかもしれないから、それも含めて楽しみにしたい。

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スタインウェイ

2015-03-09 21:17:42 | 音楽一般
昨日、あるピアノサロンで開催されたピアノ発表会に参加し、「ペイパー・ムーン」(ジャズ)を弾いた。ついでにヴォーカルもつけたのだが、形態としてはいわゆる弾き語りというよりは、ピアノを目的として練習・準備したものに歌もつけたという感じで、このほうが弾き間違いをしても止まらずにどこかでなんとかしやすいという効果がある。
 

さて、ここのピアノはスタインウェイである。以前に2回ほどやったところもスタインウェイで、そこがスタインウェイの初体験だったが、今回は同じスタインウェイでもなんとフル・コンサート・グランド。
タッチはどちらかというと柔らか目、音はスタインウェイの特色だろうか、ピアノも持つ打楽器と弦楽器双方の性格のうち、弦楽器の要素が他のピアノよりは強いかな、というもの。空間に大きく広がっていく音には、多彩な色が聴かれた。
だから、意のままにたたくとくよりは、うまく鳴ってもらうように折り合いをつけて、という感じだ。
 

と、一方ここで思いあったのである。何人かの巨匠、名匠、たとえばリヒテルやグールドが最晩年にはヤマハを使った。それはうまく鳴ってもらうより、最後は自分が思う理想の音をダイレクトに出したい、そのためのピアノは、指の延長としてこっちということだろうか。それもピアノの一つのありかただろうと思う。最近出たヤマハのCFは評価が高いようで、一度弾いてみたい。
 

値段は確か1900万円位で、フェラーリより安いのだが、もっと高くしてもいいだろうに。
 


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