ヴェルディ:歌劇「イル・トロヴァトーレ」
指揮:マルコ・アルミリアート、演出:デヴィッド・マクヴィカー
アンナ・ネトレプコ(レオノーラ)、ディミトリ・ホヴォロストフスキー(ルーナ伯爵)、ヨンフン・リー(マンリーコ)、ドローラ・ザジック(アズチューナ)
2015年10月3日 ニューヨーク・メトロポリタン 2016年11月WOWOW
ヴェルディ(1813-1901)の作品の中では、中期それも同じ1853年初演の「椿姫}とこの「イル・トロヴァトーレ」が一番の傑作と考える。なによりストーリーと音楽が緊密で、耳に残るメロディーも多い。音楽としては「椿姫」も充実しているが、ドラマとしてはちょっと長すぎる心情吐露もあって、まだるっこしいところがあるけれど、トロヴァトーレはそれもない。
中心となる四人の性格付け、関係も明確かつドラマを構成するにふさわしい。
レオノーラをめぐってあらそうルーナとマンリーコ、この二人が実は兄弟ということをただ一人知っているアズチューナがマンリーコの育ての母、そしてルーナの父に殺された母親の復讐にとさらってきた幼児(マンリーコ)を母の火刑の火に投げ込んだと思ったら、まちがって自分の子だったという構図。これが観客にはわかってきて、なんとも早くクライマックスにいたる。見ているこっちは退屈するひまがない。
これはだいぶ前にアップしたカラヤン・ウィーンのDVD以来変わらない。さてこの四人、ネトレプコとホヴォロストフスキー以外は知らない名前で、それは失礼なくらいメトロポリタンでは有名らしい。
ネトレプコは少し前からロッシーニなどの軽いものからヴェルディなどのドラマチックなものへ、入念・賢明にレパートリーを広げつつあるなかでのレオノーラ、マンリーコとルーナへの感情の表出は明確なので歌いやすいとは思うが、それだけにわかりやすいところで歌の魅力は目立つのだが、聴いていてたっぷり浸ることができる。
リーのマンリーコ、風貌にちょっと違和感があったが、激情の表現もしっかりした技術がベースになっているようで不足はない。贅沢をいえば、声質がもう少しリリックであれば。
ホヴォロストフスキーのルーナ、拍手は一番大きく、カーテンコールの最後に指揮者が彼を前に押し出し、(おそらくこの初日のために用意した)いくつもの小さな花を楽団員達から浴びせた。実は少し前に脳溢血がみつかり、賢明のリハビリを経てのこの公演ということだそうだ。この役は、冷たい感じではあるが立派な体躯と風貌が、憎まれ役としても必要で、その歌もあまり感情を表に出さずに、その暗い欲望が憎らしく持続することが求められる。体調のせいか後半少し弱くなったように感じた(気のせいか)が、終幕の「それでも私は生きている」は耳に残った。そう、最後まで彼だけは生きなければならないのだ。人として目覚めないまま。
カラヤン版の時にも書いたけれど、このドラマの主人公はアズチューナ、そして彼女のマンリーコへの愛情で、ザジックは役に見合った年齢だとおもうのだが、若いころから28年やっていたそうだ。カラヤン版でまあ名演としかいいようがなかったフィオレンツィア・コッソットもかなり長い間、これを当たり役としていた。ザジックの歌唱はとても説得力あるもので、その一方、フィナーレに入る少し前、「山へ帰ろう、、、」と歌いだすところ、激情からかわってリリックな声、歌となるところは、ヴェルディの音楽とともに見事。
この作品で、演出は装置も含めてあまり余計なことをしない方がいいのだが、今回は自然で、気にならないものになっている。
指揮はマルコ・アルミリアート、オーディションやトレーニングのシーンでもよく出てくる人だが、メトを手のうちに入れていて、特にこういうイタリアものでは、手堅い一方、歌手を気持ちよく歌わせ、もりあげ方もうまい。
指揮:マルコ・アルミリアート、演出:デヴィッド・マクヴィカー
アンナ・ネトレプコ(レオノーラ)、ディミトリ・ホヴォロストフスキー(ルーナ伯爵)、ヨンフン・リー(マンリーコ)、ドローラ・ザジック(アズチューナ)
2015年10月3日 ニューヨーク・メトロポリタン 2016年11月WOWOW
ヴェルディ(1813-1901)の作品の中では、中期それも同じ1853年初演の「椿姫}とこの「イル・トロヴァトーレ」が一番の傑作と考える。なによりストーリーと音楽が緊密で、耳に残るメロディーも多い。音楽としては「椿姫」も充実しているが、ドラマとしてはちょっと長すぎる心情吐露もあって、まだるっこしいところがあるけれど、トロヴァトーレはそれもない。
中心となる四人の性格付け、関係も明確かつドラマを構成するにふさわしい。
レオノーラをめぐってあらそうルーナとマンリーコ、この二人が実は兄弟ということをただ一人知っているアズチューナがマンリーコの育ての母、そしてルーナの父に殺された母親の復讐にとさらってきた幼児(マンリーコ)を母の火刑の火に投げ込んだと思ったら、まちがって自分の子だったという構図。これが観客にはわかってきて、なんとも早くクライマックスにいたる。見ているこっちは退屈するひまがない。
これはだいぶ前にアップしたカラヤン・ウィーンのDVD以来変わらない。さてこの四人、ネトレプコとホヴォロストフスキー以外は知らない名前で、それは失礼なくらいメトロポリタンでは有名らしい。
ネトレプコは少し前からロッシーニなどの軽いものからヴェルディなどのドラマチックなものへ、入念・賢明にレパートリーを広げつつあるなかでのレオノーラ、マンリーコとルーナへの感情の表出は明確なので歌いやすいとは思うが、それだけにわかりやすいところで歌の魅力は目立つのだが、聴いていてたっぷり浸ることができる。
リーのマンリーコ、風貌にちょっと違和感があったが、激情の表現もしっかりした技術がベースになっているようで不足はない。贅沢をいえば、声質がもう少しリリックであれば。
ホヴォロストフスキーのルーナ、拍手は一番大きく、カーテンコールの最後に指揮者が彼を前に押し出し、(おそらくこの初日のために用意した)いくつもの小さな花を楽団員達から浴びせた。実は少し前に脳溢血がみつかり、賢明のリハビリを経てのこの公演ということだそうだ。この役は、冷たい感じではあるが立派な体躯と風貌が、憎まれ役としても必要で、その歌もあまり感情を表に出さずに、その暗い欲望が憎らしく持続することが求められる。体調のせいか後半少し弱くなったように感じた(気のせいか)が、終幕の「それでも私は生きている」は耳に残った。そう、最後まで彼だけは生きなければならないのだ。人として目覚めないまま。
カラヤン版の時にも書いたけれど、このドラマの主人公はアズチューナ、そして彼女のマンリーコへの愛情で、ザジックは役に見合った年齢だとおもうのだが、若いころから28年やっていたそうだ。カラヤン版でまあ名演としかいいようがなかったフィオレンツィア・コッソットもかなり長い間、これを当たり役としていた。ザジックの歌唱はとても説得力あるもので、その一方、フィナーレに入る少し前、「山へ帰ろう、、、」と歌いだすところ、激情からかわってリリックな声、歌となるところは、ヴェルディの音楽とともに見事。
この作品で、演出は装置も含めてあまり余計なことをしない方がいいのだが、今回は自然で、気にならないものになっている。
指揮はマルコ・アルミリアート、オーディションやトレーニングのシーンでもよく出てくる人だが、メトを手のうちに入れていて、特にこういうイタリアものでは、手堅い一方、歌手を気持ちよく歌わせ、もりあげ方もうまい。