メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

イル・トロヴァトーレ(メトロポリタン)

2016-12-30 10:21:22 | 音楽一般
ヴェルディ:歌劇「イル・トロヴァトーレ」
指揮:マルコ・アルミリアート、演出:デヴィッド・マクヴィカー
アンナ・ネトレプコ(レオノーラ)、ディミトリ・ホヴォロストフスキー(ルーナ伯爵)、ヨンフン・リー(マンリーコ)、ドローラ・ザジック(アズチューナ)
2015年10月3日 ニューヨーク・メトロポリタン  2016年11月WOWOW
 
ヴェルディ(1813-1901)の作品の中では、中期それも同じ1853年初演の「椿姫}とこの「イル・トロヴァトーレ」が一番の傑作と考える。なによりストーリーと音楽が緊密で、耳に残るメロディーも多い。音楽としては「椿姫」も充実しているが、ドラマとしてはちょっと長すぎる心情吐露もあって、まだるっこしいところがあるけれど、トロヴァトーレはそれもない。
中心となる四人の性格付け、関係も明確かつドラマを構成するにふさわしい。
 
レオノーラをめぐってあらそうルーナとマンリーコ、この二人が実は兄弟ということをただ一人知っているアズチューナがマンリーコの育ての母、そしてルーナの父に殺された母親の復讐にとさらってきた幼児(マンリーコ)を母の火刑の火に投げ込んだと思ったら、まちがって自分の子だったという構図。これが観客にはわかってきて、なんとも早くクライマックスにいたる。見ているこっちは退屈するひまがない。

これはだいぶ前にアップしたカラヤン・ウィーンのDVD以来変わらない。さてこの四人、ネトレプコとホヴォロストフスキー以外は知らない名前で、それは失礼なくらいメトロポリタンでは有名らしい。
 
ネトレプコは少し前からロッシーニなどの軽いものからヴェルディなどのドラマチックなものへ、入念・賢明にレパートリーを広げつつあるなかでのレオノーラ、マンリーコとルーナへの感情の表出は明確なので歌いやすいとは思うが、それだけにわかりやすいところで歌の魅力は目立つのだが、聴いていてたっぷり浸ることができる。
 
リーのマンリーコ、風貌にちょっと違和感があったが、激情の表現もしっかりした技術がベースになっているようで不足はない。贅沢をいえば、声質がもう少しリリックであれば。
 
ホヴォロストフスキーのルーナ、拍手は一番大きく、カーテンコールの最後に指揮者が彼を前に押し出し、(おそらくこの初日のために用意した)いくつもの小さな花を楽団員達から浴びせた。実は少し前に脳溢血がみつかり、賢明のリハビリを経てのこの公演ということだそうだ。この役は、冷たい感じではあるが立派な体躯と風貌が、憎まれ役としても必要で、その歌もあまり感情を表に出さずに、その暗い欲望が憎らしく持続することが求められる。体調のせいか後半少し弱くなったように感じた(気のせいか)が、終幕の「それでも私は生きている」は耳に残った。そう、最後まで彼だけは生きなければならないのだ。人として目覚めないまま。
 
カラヤン版の時にも書いたけれど、このドラマの主人公はアズチューナ、そして彼女のマンリーコへの愛情で、ザジックは役に見合った年齢だとおもうのだが、若いころから28年やっていたそうだ。カラヤン版でまあ名演としかいいようがなかったフィオレンツィア・コッソットもかなり長い間、これを当たり役としていた。ザジックの歌唱はとても説得力あるもので、その一方、フィナーレに入る少し前、「山へ帰ろう、、、」と歌いだすところ、激情からかわってリリックな声、歌となるところは、ヴェルディの音楽とともに見事。
  
この作品で、演出は装置も含めてあまり余計なことをしない方がいいのだが、今回は自然で、気にならないものになっている。
 
指揮はマルコ・アルミリアート、オーディションやトレーニングのシーンでもよく出てくる人だが、メトを手のうちに入れていて、特にこういうイタリアものでは、手堅い一方、歌手を気持ちよく歌わせ、もりあげ方もうまい。


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上流社会

2016-12-25 14:51:31 | 映画
上流社会(High Society、1956米、112分)
監督:チャールズ・ウォルターズ、原作:フィリップ・バリー、脚本:ジョン・パトリック、音楽:コール・ポーター
ビング・クロスビー(デクスター)、グレース・ケリー(トレイシー)、フランク・シナトラ(マイク・コナー)、セレステ・ホルム(イムブリー)、ジョン・ランド(ジョージ)、リンダ・リード(キャロライン)、ルイ・アームストロング
 
最初に見たのは確か1960年代後半に渋谷の東急名画座(旧東急文化会館内)でだったと思う。なぜ見てみる気になったかと言えば、先日ジャズの発表会で歌ったJust one of those things の楽譜(米国で出ているシナトラ・レパートリー曲集中)でタイトルの下にHigh Societyとあり、映画にシナトラが出ているから、ひょっとしてそこで歌っているのかなと思った次第。どうも歌ってはいないとわかったので、DVDを入手して映画を見直すのはあとになった。
 
これが有名な「フィラデルフィア物語」(1940)のミュージカル版ということは、後者を見るまで知らなかった。どっちもオールスターキャストで、映画としてうるさく見る人からはフィラデルフィア物語の方が評価されるだろう。演劇の役者としては達者なひとたちだし。
 
そう思って今回みたけれど、まあそううるさいこと言わなくてもいい話ではないかとも思った。そもそも扱っているのは、成り上がりのブルジョア、スノッブたち、それのゴシップ雑誌記者たちの世界で、このきれいなカラー画面(本当にきれいである)の中の虚飾は、それなりに自己批評になっている(褒めすぎか?)。
 
若くしてデクスター(クロスビー)と結婚したが、うまくいかず別れたトレーシーがジョージ(ジョン・ランド)と結婚する前日の話で、未練があるデクスターは近所に住んでおり、いろいろ仕掛けてくる。そしてゴシップ記者のマイク(シナトラ)がカメラ担当の女性と入ってきて、デクスター、トレーシー、ジョージ、マイクの間でややこしい騒動がおこり、最後は予定調和というか、まあ予想された結末になる。
 
コール・ポーターの曲がもう少し多くてもいいのだが、そこはクロスビー、シナトラ、そして歌でひっぱり込まれたグレース・ケリーもまずまず可愛く歌う。
そのグレース・ケリーにとってはモナコ王妃になる直前の引退映画のようなもの。「真昼の決闘」とこれくらいしか記憶にないが、このあたりで引退というのもいいタイミングだったと思う。この映画でもエレガントといえばそうだが、細すぎてセクシーさはない。
 
デクスターが今回の結婚祝いにと送った自身の新婚旅行の思い出のヨットの模型を送る(なんともずうずうしい)、これをプールに浮かべて有名なTrue Love を歌うシーンは、なぜか何十年をこえて覚えていた。
 
シナトラが最初にちょっかいを出すシーンの歌いだしはほろぼれするほどきざで見事。
 
トレーシーがちょっとやけを起こしてマイクを誘い、屋敷から車で走り出る。このときけたたましい音をたてて飛ばすのはメルセデスのロードスターで、今から思えばグレース・ケリーの最後と符号しているようで、気の毒になった。

シナトラは、この明るくて、ちょっとインチキくさい役柄が、うまくあっている。この人の歌のよさはこれが出来るところがベースにあると思う。
 
さて、デクスターは作曲家で、この舞台となっているニューポートで予定されている催しに来るルイ・アームストロングを結婚パーティに呼んでいる。これも映画としては見世物で、サッチモがサッチモとして(as himself)出ているわけである。1956年時点で、もう彼は他の登場人物全部が白人という中で破格の扱いだった。ジャズ・プレーヤーという限定はあったにしても。
 
トレーシーから少し歳のはなれた妹キャロラインは、いまでもデクスターが好きでジョージが嫌い、いろんなはねっかえりを見せる。アメリカ映画ではよく出てくるキャラクターだが、この子なかなかうまい。
 
ところで、この映画のあと、ブロードウェイ版のミュージカルもあったらしく、最近でもそれがロンドンで上演され、あのケヴィン・スペイシーが出ていたようだ。あの「ビヨンドtheシー夢見るように歌えば」(2004)を見ているから、彼なら歌もうまいし、映像があれば見てみたい。


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グラン・トリノ

2016-12-13 15:15:32 | 映画
グラン・トリノ(GRAN TORINO、2008米、117分)
監督:クリント・イーストウッド、脚本:ニック・シェンク、音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンス
クリント・イーストウッド(ウォルト・コワルスキー)、ビー・ヴァン(タオ・ロー)、アーニー・ハー(スー・ロー)、クリストファー・カーリー(ヤノヴィッチ神父)
 
アメリカ中西部の小都市(の郊外?)に住むポーランド系の老人ウォルト(イーストウッド)、その妻の葬式から映画は始まる。ウォルトはフォードの工場で働いていたらしいのだが、息子はトヨタのセールスマンをしている。彼らの辛辣なやりとりは、世代と国の経済状況を反映している。特に日本を含めたアジア人を老人は露骨にイエローと呼ぶ。工場をやめてからは、その腕をいかして個人で修理などの何でも屋をやっている。
 
隣には、アジア系の大家族が住んでいて、その一人の少年タオが従兄弟たちを含むワルたちにひっぱり込まれそうになりいじめられているのを見つける。その家族とウォルトとはうまくいってない、言葉も通じにくいし、彼は朝鮮戦争などで精神的に傷を負ってもいる。ただタオの姉スーは英語もうまく頭もよくて、次第にウォルトと打ち解けてくる。
 
タオは悪がきたちに強制され、ウォルトが宝物にしている1972年式フォード・トリノ(通称グラン・トリノ、スポーツタイプ車)を盗もうとして失敗、罰として彼の命令で働かされ、その過程でタオは仕事と大人というものを覚えていく。
悪がきたちが乗っているのはホンダで、このあたりもしっかり設定されている。
 
ウォルトがアウトサイダーであることは、毎週教会に行かないことに象徴されるが、神父はしつこくというか辛抱強くそれに対応する。このあたりも、この地方の特色なのかなと思わせる。この神父を物語り全体でうまく使っているのは見事。
 
そして、少しはうまくいきそうなところで、悪がきがふたたびこの隣の家族を襲撃、特にタオの姉スーが無残な姿で戻ってくる。
さて、これからウォルトがどう立ち上がり、どう決着をつけるか。イーストウッドの監督・主演であるから、いろいろ想像するわけだが、かなり意外な(特に細部も含めると)ものとなっている。
 
実はタオとスーの家族はモン族という少数民族で、ラオス、カンボジア、ベトナムあたりにいて、ベトナム戦争時にアメリカに協力したため、戦後に亡命してきたらしく、それはウォルトに負い目とシンパシーを感じさせているようだ。
 
こうして終盤はウォルトにとっての「義」を表現、発揮するものとなるのかと想像したのだが、後味は決してよくはないものの、そうだったのか、そういうこともありうるのか、と思わせた。1930年生まれのイーストウッド、やはり大変な映画人である。そして、「ジャージー・ボーイズ」(2014)その他、なぜか若者をテーマにするのが好きなようだ。
 
またこの映画を見ていると、イーストウッドが共和党支持者であること、つまりリベラル(平等)よりは自由をえらび、今回の大統領選でもトランプ支持とまではいかないがある程度理解を示したということが、うなずける。それが浅薄ではないことも。
 
グラン・トリノはあのTVドラマ「刑事スタスキー&ハッチ」の車らしい。見覚えがあるといえばある。フォード・フェアレーンの発展系で、フェアレーンは私の若いころ代表的なアメリカ車の一つだった。

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桑原あい 響楽 クラシックホールの陣 2016 冬の陣

2016-12-08 14:55:39 | 音楽
桑原あい 響楽 クラシックホールの陣 2016 冬の陣 
12月7日(水)サントリーホール・ブルーローズ(小ホール)
ピアノ:桑原あい ヴァイオリン:須藤杏 島内晶子:ヴィオラ 林田順平(チェロ)電気ベース:森田悠介
 
桑原あいのピアノ、ライブでは昨年12月の同じ編成によるものから聴き始めて4回目、若いころからよく行っていたコンサートはクラシックだから、同じ演奏家にこういうことはなかった。
2月のトリオ(新宿ピットイン)7月のソロコンサートと、すべて編成が大きくことなっている。したがって、この人のピアノの特徴をそういうなかで、それでもどうか、という形でつかみ味わうことができるということ、そして多様な編成で彼女の作曲・編曲能力が発揮されるのを聴く、という期待と楽しみがあった。
 
それまでのCDとことなり、こういう流れの中で、同じ曲名がいくつも出てきているけれど、ずいぶん違うところと、前よりこなれてきて、熟成されてきていて、こちらにもより印象強くなってきた、という感がある。
 
最初の919/Betweenと最後のThe Backは彼女のテーマになってきたようで、919の始まりのきしむ弦はバルトークを想起したし、The Backは聴いているこちらも、あっこれは少し覚えているなという感じから途切れなく入っていけて、しかもこの真摯な想いと決意の作品でピアノがよく歌っているのは見事。
 
またSomewhere(ウェストサイド・ストーリー)の歌いかたも回を重ねるごとに、完成度が高くなってきた。
二人の姉(ゆう、まこ)と彼女自身によるいくつかのアレンジは一人一人の弦が明確に聴こえ(PAなし)、それを聴きながらのピアノとともに、全体として高い完成度だった。また少し体力もついてきたようだ。
 
考えてみれば、かなりの歳になる最近まで、ジャズはそうのめり込んで聴いてなかった。だから、いわゆるビバップを中心とするるモダンジャズについてそうこだわった見解も思いもない。その一方、クラシック延長で出てきたいわゆる現代音楽は、若いころからそこそこ聴いていて、多少の理解、好みはある。そういう背景で桑原あいのピアノを聴けているというのは幸運なのかもしれない。
ともかく、この歳まで生きてきて聴くことができたのはよかった。

セットリスト
1. 919 / Between - Ai Kuwabara
2. Tell Me A Bed Time Story - Herbie Hancock
3. Somewhere - Leonard Bernstein
4. Riverdance - Bill Whelan (strings arranged by Mako Kuwabara)
5. September Second - Michel Petrucciani
6. B minor waltz - Bill Evans (arranged by Yu Kuwabara)
7. Boléro - Maurice Ravel (arranged by Yu Kuwabara)
8. I've Seen It All - Bjork
9. 響楽Insomnia - Yusuke Morita
10. Somehow It's Been A Rough Day - Ai Kuwabara
11. The Back - Ai Kuwabara
enc. Take The A Train(Duke Ellington) etc.





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油井正一「生きているジャズ史」

2016-12-08 10:37:27 | 本と雑誌
生きているジャズ史:油井正一著 立東舎文庫 2016年9月
 
ジャズ評論家油井正一(1918-1998)の書いたものは若いころからそれなりに読んでいたが、この長期間の論集を読むと、イメージも変わってくる。この人の文章を読んでいたといてもお多くはクラシック音楽中心の「レコード芸術」で、著者と野口久光あたりが中心、話題のレコードの紹介だったように記憶している。
 
本書は、それらとは違って、ジャズの起源、発生かアメリカ南部、シカゴ、ニューヨーク、ウェストコーストと広がっていくあたり、それも禁酒法時代をはさんで、という流れがよくわかってありがたかった。
いわゆるビバップに至るそしてその前後の過程で、今もよく聴かれるモダンジャズの名演奏、奏者が生まれ、その後マイルス・デイヴィスの「ビッチェズ・ブリュー」に至るところまで。
 
著者の世代からすると意外にも「ビッチェズ・ブリュー」の評価は高く、画期的というものである。また聴いてみよう。
私のように、モダンジャズをリアルタイムに真剣に聴
 
ただ、ビバップについてはもう少し音楽的にわかりやすい説明がほしいのだが、これは故人にいってもいたしかたないこと。
おもしろいのは、ある時期までの話し方(文体)が軟派の講談調みないなことで、これは意外。それも韜晦ではなく、著者の育ち、趣味をそのまま出したもののようである。今なら問題とされる言葉づかいがそのまま収録されているのもいい。
 
私がデジタルアーカイブの仕事をしているとき、つきあいのあった慶應義塾アートセンターの「油井正一アーカイブ」プロジェクトは、相当なもんだといわれていたが、こうして本書を読むとなるほどと思う。

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