メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ワーグナー「パルシファル」(メトロポリタン)

2014-08-19 16:14:46 | 音楽一般

ワーグナー:楽劇「パルシファル」

指揮:ダニエレ・ガッティ、演出:フランソワ・ジラール

ヨナス・カウフマン(パルシファル)、ルネ・パーペ(グルネマンツ)、ペーター・マッティ(アンフォルタス)、カタリーナ・ダライマン(クンドリ)、エフゲニー・ニキティン(クリングゾル)

2013年3月2日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2014年6月WOWOW

 

ワーグナー最後の、この長大なオペラをじっくりと味わうこのができる舞台である。今回の演出、背景や装置は必要最小限で、具象的なものはほとんどない。衣装もシンプル、男たちはシャツとスラックス、グルネマンツや騎士たちはビジネスマンのワイシャツでノータイ、パルシファルのみシャツは紺、クンドリも黒のシンプルなロングである。

以前ここでアップした2012年のバイロイト、あの幻滅はここにはもちろんない。

 

アンフォルタスの脇腹の傷、男たちを誘惑する女たちの白い下着に近いロングにこれでもかと現れる血、これはこの演出の中で非常に目立つところとなっている。幕間で技術の人が材質について話していたが、流れ出すしかけはどうなっているのだろう。あまりにも見事なコントロールなので、もしかしたらこれは光学的なもの、つまりプロジェクション・マッピングかと一瞬思った(まさか、、、)。

 

ここでグルネマンツ、パルシファル、クンドリの歌唱がどうか、ということだが、3人ともパワー、スタミナ、表現の妥当性、申し分ない。

まず第一幕でグルネマンツがこの物語の背景を長い時間をかけて語るのだが、パーペがいいから、ここで素直に入っていける。この人、このタイプの第一人者、たいへんな力を持っている人だ。

そしてカウフマン、これだけ力があって、そのうえ見てくれがいい人がこれまでにいたか? 同じメトのルパージュ演出(レヴァイン指揮)「ワルキューレ」にジークムントでとても感心したが、このパルシファルとともにリリックなところもいい。まだジークフリートはやってないけれど、この順番でいいだろう。

 

クンドリのダライマンも、この複雑なキャラクターを複雑なまま提示して、不思議な説得力を持たせている。 

 

この3人を支えるガッティの指揮がまた思い切った表現で、説得力がある。このひと、ヨーロッパよりメトの方が水があうかもしれない。

思えば、過去の名演奏、クナッパーツブッシュ、ブーレーズ(いずれもバイロイト)、カラヤン(ベルリン・フィル)のいずれも、神秘的ではなく、明確に解釈を伝えるものだった。

 

さて以下は戯言だが、ワーグナーはあの「指輪」を書き進めて、ジークフリートの運命は、予定調和でなく、どこか後味のわるい過程であんなようになり、物語として決着をつけるためブリュンヒルデの自己犠牲にきわめてすぐれた音楽を与えた。

創作家としてはあの物語を作り始めた以上、あれは誠実だったのだが、人生の終わりとしては何かもう一つまとまりのよいものが欲しかったに違いない。そう考えれば、この長すぎるほどの作品、少し気楽に聴いてもいいのではないかと、考える。


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ベルリオーズ「トロイアの人々」(メトロポリタン)

2014-08-14 18:32:36 | 音楽一般

ベルリオーズ: 歌劇「トロイアの人々」

指揮:ファビオ・ルイージ、演出:フランチェスカ・ザンベッロ

デボラ・ヴォイト(カサンドラ)、ドゥエイン・クロフト(コロエブス)、ブライアン・イーメル(アエネアス)、スーザン・グラハム(ディドー)、カレン・カーギル(アンナ)、クワンチェル・ユン(ナルバル)、デビッド・クロフォード(ヘクトールの亡霊)、ジャクリーヌ・アンタラミアン(アンドロマケ)

2013年1月5日 ニューヨーク・メトロポリタン 2014年6月WOWOW

 

たいへん大がかりなオペラで、大きな劇場、予算、歌手たち、とくに大勢の優れた合唱が必須だから、そういつもできるものではないようだ。

メトロポリタンでも10年ぶりとか。実は1983年の映像は見たことがあるが、そのころは音楽的な意味づけなどに注意が向き、気楽に楽しむ感じでなかったから、どうもよく覚えていない。指揮はレヴァイン、ジェシー・ノーマン、タチアナ・トロヤノス、プラシド・ドミンゴだったのに。

 

今回こうしてのんびり見ていると、幕間にディドナートがヴォイト、グラハムにインタビューするという、役割は逆転することもあるが、いつものおなじみの人たちの会話でも出てくるように、第一幕のカサンドラ、第二幕以降のディドーともに、自己犠牲で世界を救済する女、そうブリュンヒルデ(ワーグナーの「指輪」)に先駆けたもの、ということもできる。

 

それに、ギリシャから逃れたトロイアがカルタゴに行き、そこから失意のディドーを残しイタリアへ、そしてディドーはハンニバルの出現と復讐を預言する、ということは、ベルリオーズはフランス人だが、イタリア人のための「指輪」かもしれない。

 

自死を選ぶカサンドラ、ディドーに対し、自分の夫を殺したアキレウスの息子と結婚したアンドロマケのエピソードも入ってくるから、女性を多面的に描いているともいえる。 

 

それに比べると男は、アエネアスの勢いのある歌唱に頼っているかもしれない。ここで歌っているブライアン・イーメルは突然の代役で、この映像は4日目だったらしい。他で演じたことはあったようだが、それにしても力のこもった、きもちのいい歌唱だった。

 

ヴォイト、グラハムは当たり役だろう。グラハムについては、インタビュアーとしてしかこれまで知らなかったが、身長があり姿も立派だった。

 

それにしても、ほぼ全編にわたり大勢で登場する合唱は、場面場面でいくつも違う役になったりするようだし、ここの実力のほどを遺憾なく発揮している。

 

さて残念ながらそのメロディをすぐ覚えてしまうアリアはちょっと思い当たらないが、それでもさすがベルリオーズで、音楽に飽きてしまうということはない。なかでは、第二幕前半の無言劇のところ、オーケストラのみの「王の狩りと嵐」、これは単独で演奏されることもあって、昔から親しんでいる。フィギャースケートで誰か踊ってくれないかなと思うのだが、これはまだ。


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ムスタファ・ケスス/クレマン・ラコンブ「ツール・ド・フランス100話」

2014-08-07 11:07:16 | 本と雑誌

「ツール・ド・フランス100話」 ムスタファ・ケスス/クレマン・ラコンブ 著

斎藤かぐみ 訳  文庫クセジュ(2014年6月)

1903年にはじまったツール・ド・フランス、ちょうど先日、101回目が終わったところである。総合優勝有力の何人かがリタイヤする中、途中からはニバリ(伊)の独走みたいになってしまった。初優勝が不思議なくらいだった。

 

TV放送を意識してみるようになった1986年から、ほぼ毎年追っかけていて、この単なる自転車ロードレースとその積み重ねと言い切れないイベントの面白さを味わってきた。

 

そのなりたち、いまでは信じられない初期の原始的な自転車、運営など、よくこういった中で選手たちは完走してきた、というあたりからはじまり、一つ一つが簡潔で読みやすいエピソードとして書かれている。

 

最初にTVで見たのは、イノー(仏)が5勝したのち、最後のレースとなった1986年、優勝したのは同じチームのグレッグ・レモン(米)だった。

 

ここから数年見ていて、チーム対チーム、チーム内、個人対個人の対決と仲のよさ(違反ではない協力?)、総合優勝とは違う評価・表彰など、これほど人間臭く面白い、きれいごとばかりでないものはない。

 

大人の、、、というつもりはないが、これが生き続けているといるのは、いい、ほっとする。 

 

著者二人はそれぞれ「ル・モンド」、「ル・ポワン」の記者、だから豊富な内容を無駄なく書けたのだろう。

 

ところで全編にわたってドーピング事件が出てくる。これはなくなってないし、こう書かれてみれば毎日のように200㎞近く、全部で4000㎞弱を走り、急峻な山岳コースでも信じられないダッシュをする選手がいるとなると、それはそうか、ということになる。

 

どうもまったくやってない選手はほとんどいないらしい。こうなると、ドーピングとは、人間が限界に挑むときに摂取していいものは何か、ということをもう一度考えさせられる。

 

摘発され、処罰されても、復帰はかなり認められているようだ。

 

訳者は分野ちがいの人だけれど、なかなかの仕事で面白く読める。

 

このレース、欧米以外では案外日本に関心ある人が多いようで、かの宮崎駿も知られていたらしく、何かツールの絵を描いてほしいという「ル・モンド」の依頼に対し、ローラン・フィニョン(1960-2010)を描きタイトルは「行け、フィニョン」としたそうだ。メガネと髪の毛に特徴がある総合優勝2回のイメージとは違うこのバカロレアを持ったパリジャンを選んだのはセンスがあるし、面白い。

これは「ル・モンド」のフィニョン訃報に書かれていた、と訳注にあった。


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R. シュトラウス「アラベラ」

2014-08-06 21:40:02 | 音楽一般

R. シュトラウス: 歌劇「アラベラ」

クリスティアン・ティーレマン指揮 ドレスデン歌劇場管弦楽団、合唱団

演出:フロレンティーネ・クレッパー、脚本:フーゴ・ホフマンスタール

ルネ・フレミング(アラベラ)、ハンナ・エリーザベト・ミュラー(ズデンカ)、トマス・ハンプソン(マンドリカ)、ダニエル・ベーレ(マッテオ)、ダニエラファリー(フィアカーミリ)

2014年4月12日、21日 ザルツブルク祝祭大劇場 2014年4月NHK BS

 

「アラベラ」(1933)はどこかの来日公演の放送を見た記憶があり、だいたいの筋は知っていたので、音楽を楽しめた。

考えてみれば「バラの騎士」(1911)以降のシュトラウスは、あまり激しいドラマティックな音楽をつけることはない。このホフマンスタールの確か遺作に相当するものは、没落貴族、姉妹を嫁がせる金はないため、姉と仲のよい妹を男の子として育てているというちょっと無理な設定なのだが、結婚を夢み、そのうまくいかない行方に悩み、間違いの喜劇もありで、世話物というか、そんなに深刻なものは特に観客側から見ると、ない。

それだからなのだろうか、シュトラウスは歌にそれほど起伏をつけず、それに寄り添うオーケストラは極めて美しく作る、後期のシュトラウスの常として、弦の美しさ、よく入ってくるヴァイオリンのソロは、このオペラでも際立っている。それでいて雄弁すぎることはない。

 

フレミングはよく磨かれた歌唱、姉の性格からすればこれはぴたり。最後に一緒になるマンドリカのハンプソンは声も歌唱も男前でいい。姿も文句なしだが、髭はないほうが、、、

 

ズデンカのミュラー、歌唱、演技、姿、すべてチャーミングでいい。これ本当は妹と観客にはわかっているから、厳密にはオクタヴィアン(バラの騎士)のようなズボン役ではないのだろうが、ホフマンスタール、シュトラウスが好きそうな倒錯は観客にもうまく伝わってくる。

 

演出は、物語の場所が、金がない(召使を雇えない)貴族が住むホテルと謝肉祭のパーティ会場のみということもあり、シンプルな照明主体の舞台もあいまって、進行に集中できる。この人の名前からすると女性なんだろうが、姉妹の機微がよく伝わってくる。

 

ティーレマン指揮ドレスデン、これはもう文句ない。ドイツ統一からこのくらい経って、もともと力のあったドレスデン、技術水準の向上を考えれば、納得できる。もっとも他のオーケストラでも、シュトラウスの平均的演奏水準は以前より高くなっているだろうから、これから楽しみである。

 


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