メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

セイル・オン・シルヴァー・ガール

2006-11-28 22:09:52 | 音楽一般
昨日(11月27日)午後10時、NHK-TV「プレミアム10 」で、「世紀を刻んだ歌「明日に架ける橋・賛美歌になった愛の歌」」が放送された。
 
文字通りサイモンとガーファンクル「明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)」(1969)の話であるが、まず驚かされたのは、あの2001年9月11日の直後からしばらく、旅立ち、離陸、出航などが歌詞にある曲の放送が自粛されたということである。
 
アメリカにして、、、と思ったが、それは事実として受け止めるしかないし、いい曲はそれくらいでは死なない。
 
もう一つ驚いたのは、この曲のまさに、
Sail on silvergirl 
さあ船出だ 銀色の少女よ
というところが引っかかったということであった。
 
この曲が入ったアルバムを買ったときからこの箇所が気に入っていたのだ。
このフレーズからバックサウンドが一段と盛り上がる。
イメージとしては岸にあげられていた船、おそらく帆船が、丸太の上を転がされて海に入っていき、そして帆が風をはらんで、船は動き出す、、、というもの、それがぴったりのサウンドである。
 
あまりに良くできた音楽だから遭遇した災難だと思いたい。

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マデルナのマーラー第9

2006-11-27 22:48:02 | オーケストラ
ブルーノ・マデルナ指揮BBC交響楽団の「マーラー交響曲第9番」を聴く。1971年3月31日ロンドン・ロイヤル・フェスティバル・ホールのライブ録音、今年BBCレジェンド・シリーズで発売された。
 
この曲、随分前からいろいろな人の指揮で聴いた。 
最初は良くわからなかったし、マーラーといってもあまり熱い入魂といった演奏では、この長丁場何かいやになるのであった。
 
そしてジョン・バルビローリ指揮ベルリン・フィルを聴き、肩の力が抜け、また何かやわらかく深い世界に浸ることが出来た。
この録音は1964年、コンサートでのあまりに素晴らしさに楽団員たちがEMIを説得して実現したものとか。バルビローリの演奏では、本当に「神は細部にあり」がうまく活かされている。
 
そして、80年代晩年のカラヤン指揮ベルリン・フィルのスタジオとライブの二つ。曲の構造を常に見失うことがない。しかし、ブーレーズなどと異なり、この見通しの良い構造が常にダイナミックに動いていく。
 
マデルナのやり方は、下手な言い方だがこの二つの中間だろうか。しかし中途半端でななく、包み込むような深さの中で両方を実現させている。こういうことはなかなかない。これからもよく取り出して聴くだろう。
 
ブルーノ・マデルナ(1920-1973)はノーノ、ベリオなどと並んで20世紀イタリアを代表する作曲家の一人だが、同時代の作曲家達と付き合いがよくまた彼らの作品の指揮もよくしたから、皆に好かれていたようだ。
 
今も手元に死の少し後に発売された「ブルーノ・マデルナの芸術」と題する愛聴のLPがあり、ここでは1973年夏のザルツブルク音楽祭でメシアン、ストラヴィンスキー、ブーレーズ、ルトスラフスキーの作品をマデルナが指揮している。
何か、友達によるマデルナへのトリビュート・アルバムを自身が指揮しているような雰囲気だ。
今回のマーラーを聴くと、もっと他にも録音はないだろうかと思う。

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イングリッシュ・ペイシェント

2006-11-25 19:00:13 | 映画

「イングリッシュ・ペイシェント」(The English Patient)(1996 、米、 162分)
監督・脚本: アンソニー・ミンゲラ、原作: マイケル・オンダーチェ、撮影:ジョン・シール、音楽: ガブリエル・ヤーレ
レイフ・ファインズ、ジュリエット・ビノシュ、クリスティン・スコット・トーマス、ウィレム・デフォー、コリン・ファース、ナヴィーン・アンドリュース、ジュリアン・ワダム、ケヴィン・ウェイトリー
  
以前見たとき、細部がよくわからなかったのだが、今回吹き替えでも見て、その映像の魅力とともに重層的なストーリーも理解できた。よどみなく、細部の面白さにあふれた、きわめて美しい作品。
ブッカー賞のベストセラーを原作とするらしい。
 
第2次世界大戦時の北アフリカの砂漠で複葉機が銃撃され、重傷を負った男(レイフ・ファインズ)が遊牧民に救われた後にイタリアの連合軍に収容される。男の顔は原型をとどめていないのだが、少し話をしたところで「イギリス人の患者」と呼ばれる。過去を思い出せないのか、意識して思い出さないようにしているのか不明な状態。
 
そして移動中に彼は動かすのが危険な状態になり、担当の看護兵ハナ(ジュリエット・ビノシュ)は近くで見つけた無人の古城で看病を続けることになる。患者はどうもコスモポリタン、教養人のようで、持っていた、いろいろなメモ、絵、写真などがはさんであった本はヘロドトスのもの。
 
この本と、患者が語りだしそれにつれて思い出していくこと、その過去の物語、映像が、やはり戦時の今と交錯しながら、動き出す。
 
その過去だが、植民地の雰囲気漂うカイロや北アフリカの砂漠、イギリス人を中心とする地理や考古学など砂漠愛好家のグループでこの患者アルマシーはパイロットのジェフリー(コリン・ファース)、貴族的な妻キャサリン(クリスティン・スコット・トーマス)と知り合い、アマルシーとキャサリンは愛し合うようになる。カイロの街、パーティ、砂漠旅行、映画の魅力がたっぷりである。
 
そして戦争になり、ドイツ軍とのからみなどがある。しかしそれは患者の回想と、カイロで彼らにかかわり生き延びてこの古城に入り込んできたカラヴァッジョ(ウィレム・デフォー、好演!)の話から、最後までかかってわかるという形をとる。
 
そして、この古城に多く仕掛けられている爆弾の処理にやってくるインド人将校キップ(ナヴィーン・アンドリュース)、彼とハナは次第に心を通じ合う。
 
一見、アルマシーとキャサリンの北アフリカを舞台にした壮大な愛の物語、予告編のそういう触れ込みのように見えるが、見ていると、この話を紐解いて、ゆっくりいろいろな細部を見せるのに患者の回想、その思い出し方を使っているのがわかってくる。患者の位置が見るものの位置だろう。
 
そして次第にこの物語の主人公は、実はハナなのではと思えてくるのだ。彼女が監督の視点だろうか。

物語の主導権を握るのは、過去の北アフリカではキャサリン、現在ではハナ、つまり二人の女。必ずしもそうだからというのではないが、戦時でも登場人物は皆、個人の事情、個人と個人の関係が第一であり、この日常が丁寧に描かれているということが、映画を広がりと奥行きあるものにしている。
そうであっても戦争は着々と進行していくのであって、それをカイロのニュース映画上映シーンを入れることによって、うまく示している。
 
撮影はカイロ、砂漠、そしてイタリアの田舎、いずれも見事。
冒頭の洞窟はうっとりするし、キャサリンの肌、布地の襞、砂漠の文様が相互にすっと移ったりするとはっとする。
キップがハナをつれていく教会で、彼が発炎筒を彼女に持たせて滑車に吊り上部のフレスコ画を見せるところはなど、これは想像力のたまものだが、なんということか。

北アフリカの音、祈り、音楽(北アフリカ、当時のジャズ、場面と情感に沿ったクラシック)、これらの選曲とアレンジ、タイミングは完成度が高い。

レイフ・ファインズは、北アフリカ時代の山っ気がある男と患者両方の一筋縄ではいかない役だが、記憶に残る癖のある(いい意味で)演技。これからすれば「ナイロビの蜂」は当然か。

キャサリン役のクリスティン・スコット・トーマス、美人というタイプではないが、最初の砂漠で物語を話すところから、アマルシーがひきつけられていくのは当然と思わせる。話し方、しぐさ、衣装などの全体が、アマルシーとの激しいシーンはもとより、セクシーである。

コリン・ファースは、人がいいが単純で寝取られるという典型的な役にぴたりとはまっている。「高慢と偏見」(BBC TV)や「ブリジット・ジョーンズ」などのダーシー役とは随分違うのも面白い。

ハナ役のジュリエット・ビノシュ、この人がこの作品を最後に仕上げたといっていいだろう。
患者、キップ、カラヴァッジョとのかかわり、そうやって過去を拾い集め、看護という立場だからかどうかはわからないがそれらを平等にあつかう、それが人々それぞれの日常を際立たせる。

映画でも、ハナがアマルシーに宛てたキャサリンの手紙を読み終わったとき患者は死に、全ての物語は彼女に集約する。
この城を去るときに、部屋に戻ってきて患者の本を持っていく、このシーンに「ハナはすべての物語を語るものになった」ということが象徴されている。
 
ジュリエット・ビノシュは控えめな演技を持続し、背も小さく、役柄から衣装も軍服と夏のワンピース一つくらい、髪もメイクも考えれば、目立つ要素は無いのだが、この人と役に見るものも深く入っていってしまい、、、なんという大きさ、、、そしてセクシーだ。

ちょっと面白いところを二つ
古城の瓦礫の中にあった傾いたピアノをハナが見つけ、弾き始めるとそこへキップが来て離れろといい、ドイツ兵がしかけていった爆弾を見つける。ピアノなどは一番あぶないのだというと、これはバッハだからまさかこれで、とハナは冗談で返す。
このバッハの曲がなんと「ゴールドベルク変奏曲」。ハナはカナダ出身ということだから、観客の中には「グレン・グールド」の名前を浮かべる人もいるだろうし、作り手もそのつもりだろう。
 
ハナが古城に住みだしころ、庭の石畳で退屈しのぎに「ケンパッ」をしている。そして後半、先に書いたようにキップに導かれてフレスコ画を見に行くとき、庭にキップが置いたいくつもの小さな火が進路を示している中、飛び出してまず2回この「ケンパッ」をやり弾むように走って行く、見事。


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田畑あきら子の絵

2006-11-22 23:14:35 | 美術

「田畑あきら子と難波田史男」と題した展覧会が新潟県立近代美術館(長岡市)で開催されている(2006年10月31日~12月17日)。 「田畑」は「たはた」と読む。
 
田畑あきら子(1940-1969)を知ったのは、多くの人と同様に洲之内徹「気まぐれ美術館」(新潮文庫)でだが、10年近く前に読んだときにはあまり気にとめなかった。口絵(カラー)と文中(モノクロ)に絵は出ているものの、あまりインパクトを感じない抽象画だったせいかも知れない。
 
しかし最近再読してみて、彼女の絵に対する姿勢に共感を覚え、ネットで検索してみた。ちょっと無名になると検索結果が極端に少ないのは他の画家と共通の傾向だが、それでも、今秋新潟で展示会があるらしいことだとか、Amazonでまだ彼女の詩画集(1997年 新潟日報事業社)が購入できることを知り、まず本を早速注文入手、手にとって驚いた。 
 
おそらく短い生涯の作品ほとんどがここあるのに加え、絵に即したりして書いた詩、詩の直前の日記など。
この描きながらその瞬間瞬間のキャンバスと自分とに対峙しながら、その緊張から逃げずに、また描いていった、その結果は、やはり実物を見たくなるのであった。 
 
贅沢だが休みをとり新幹線で日帰りで長岡まで行ってきた。
企画展の開催前で、見ている人はほとんどなく、それはじっくり見ることが出来た。 

ただ、最初企画展に近い形だったのが、常設展の中でということに諸事情でなったらしく、彼女の作品はわずか17点である。それでも、油彩、線画、コラージュなど、やはりごく近くから見ればそれだけのことはある。
 
たとえば「気まぐれ美術館」の口絵にある油だが、これはそこそこ大きいものだが、上の方に出てくる黒い線は彼女にしてはシャープだけれど近づいてみると上の白を引っかいて下の黒を出したように見え、下の方の柔らかい線は確かに筆で描いたもので、洲之内徹が書いているように緩やかで速度が遅いようだ。またこれが、彼が引用しているように彼女の詩にある

コレガワタシノ オボロ線 デアッテ
オボロニ変身スルコト ト 絵ヲ
創ラナケレバナラナイコトノ関係
ガ スナワチ 現実ガ現実ヲ見失ウ
コトナノデショウ 、、、

の「オボロ線」なのかなと思ってみたりする。
 
それと、アシール・ゴーキー(1904-1948)から影響を受けたといわれるところも少し理解は出来た。
実はアシール・ゴーキーという人は、彼女に興味を持つまで絵は知らなかった。
幸いにもワシントン・ナショナル・ギャラリー
http://www.nga.gov/cgi-bin/psearch?Request=S&imageset=1&Person=12850 
などでみることが出来る。

また科学、宇宙という彼女からよく出てくる想念を思わせる線、人間の筋肉の線が次から次へと出てきて、変化しつながる、そういういくつかの絵にはエロチックなところもある。

一人の画家として、完成度、まとまり、量など、もう少し生きていたらというのは失礼だが、やはりあまりに若い時期に病は急であった。
 
それにしても今回の前に開かれたまとまった展覧会は、10年前1996年11月同じ新潟県立近代美術館においてである。
こうして久しぶりであれば、もう少し油彩、デッサンを集めて欲しかった。この美術館所蔵のデッサンだけでももっとあるときいているのだが。
 
いずれ首都圏でもっとまとまった展覧会を企画して欲しいものである。全国のファンも来やすいだろう。


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ショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタ

2006-11-19 21:40:34 | 音楽一般

ショスタコーヴィチ(1906-1975)のヴィオラ・ソナタ(作品147)をはじめて聴く。作曲家 最後の作品で、死のまもなく後に初演されたそうである。

この人の後期の特に独奏曲、室内楽は純粋に音楽的とでもいうようになり、いわゆる20世紀現代音楽を聴いていればむしろ交響曲より入っていきやすいようだ。彼の国家、党などとの葛藤は、頭に入れないようにはしても雑音として入ってくることが多いが、こういう曲だと、気にならない、無視できる。
 
曲は、モデラート、アレグレット、アダージョの3つに分かれているが、楽章という形ではなく、30数分連続して演奏される。
最初のアダージョは、始まりからしばらくヴィオラのピチカートとピアノの呼応が印象的で、ピアノによる楽想の展開も荘重でスケールが大きい。
次のアレグレットは少し明るさもあり躍動的。
そして問題の長いアダージョ、ここでは明らかにそれとわかるようにベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」冒頭のメロディーが使われ、何か作曲家の頭から離れない強迫的な想念のように、ヴィオラとピアノで繰り返し綴られていく。

これが、自身の音楽的な成り立ちを振り返るものなのか、何かある時期のことを思っているのか、引用するからには何か意味はあるはずだが、それが特定できなくても、そういう捨てられない何かと、それを見つめる目、それがいまあること、それらについて、聴くものに何かが沈殿していく。もしかしたら作曲することによって、彼にその何かが明らかになったのか。
 
聴き終わってしばらく後、さてこういうのは他の作曲家にもあったなと思い出したのが、リヒャルト・シュトラウス(1864-1949) が1945年ナチス崩壊直後に作曲した「変容(23弦楽器のためのメタモルフォーゼン)」、ここに出てくるのはベートーヴェン交響曲第3番「英雄」(エロイカ)葬送行進曲のテーマ。従ってわかりやすいはずなのだが、それでもそういう第一次的な示唆を超えた次元に連れて行く。
 
つまり、何か知られている曲を使ってこういうことをやる、それはあまり表面的な意味にとらわれて聴かなくてもいいということだろう。
 
少し前に買ってきたこのCDはメロディア製作(プレスもロシア)で、ヴィオラがユーリ・バシュメット、ピアノがスヴャトスラフ・リヒテル、同じ作曲家のヴァイオリン・ソナタがオレグ・カガンのヴァイオリン、同じくリヒテルのピアノでカップルされている。後者はダヴィッド・オイストラフ60歳誕生日に捧げられた曲で、オイストラフとリヒテルによる録音(1969)も聴いたことがあるが、今回はそれよりさらに振幅の大きいものとなっている。
それぞれ1982年、1985年のライブ録音。
 
ショスタコーヴィチはかなり人気があるけれども、生誕100年の今年のうちに地味な作品のCDは買っておこうかと探したら、あると思っていなかった上記の演奏者のものが見つかり、好運だった。


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