by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです
先日出かけた香月泰男展に再度行ってきた。展示には前期と後期があって、今回は後期である。
展示替えは確かにあったが、主要なものは今回もほぼ残っていた。
これだけの展示を一気に見ると疲労感もあり、もう一度見ないととは当初から考えていた。
さて、今回気持ちの上で少し余裕を持ってみると、シベリア抑留とはあまり関係なく絵画に対する方法論、姿勢を画家が持っていたことがわかる。
若いころからいわゆるキュビズムに近い手法があり、また準備段階で彫刻を作ってみることがよくあったということを考えると、画家は対象の生命感、主張を生々しく表出するというよりは、そこにあるものとして定着させるという方向に行っていたように思われる。
シベリアシリーズに多く見られる表情が見てとれない仮面とまではいわないが硬い顔の数々も、それがそこに在る、在ったということが最優先に描かれたと言える。そのために黒が選ばれ、手法として完成されたと、受け取った。
そうなると、この多くの黒い顔たちは、たいへんな記録であり、遺産であるともいえる。
ヴェルディ:歌劇「マクベス」
指揮:リッカルド・シャイー、演出:ダヴィデ・リーヴェルモル
ルカ・サルシ(マクベス)、アンナ・ネトレプコ(マクベス夫人)、イルダール・アブドラザコフ(バンクォー)、フランチェスコ・メーリ(マクダフ)
2021年12月7日 ミラノ・スカラ座開幕公演 NHK BSP
この前の開幕公演は観客なしの映像編集で内容は別の意味で素晴らしかったが、今回はほぼいつもどおりで、まずはよかった。
私にとってマクベスはヴェルディのなかでもオテロとならんで苦手なオペラで、それは原作がこうだからしょうがないといえばそうなのだが、それでも今回はあの激務ともいうべきマクベス夫人をネトレプコが完璧に熱唱、そして刺激があって快適に追っていける演出、特に舞台美術で、まずまず鑑賞できたと思う。
かなわないなという感じの悪女だが華があるということになると、いまはネトレプコしかいないかもしれない。マクベス、バンクォー、マクダフも皆よかったが、衣装を含めもうすこし対照があったほうがよかったと思う。
装置は現代のいろんなものをうまく使い、せりとして檻のようなエレベーター、そしてやはり檻状のしきりなどが、眼を飽きさせない背景、照明とともに効果的であった。
しかし、カーテンコール時の感じでは、賛否が分かれていたのだろうか。
この上演では、いわゆるパリ版のように、つまりパリでの上演ではそれがないと客が入らないから入れているバレエが入っている。終盤に入る前あたりであるが、筋立てを暗示する感じであっても、説明がすぎるところもあり、評価はわかれるところである。振付はなかなかいいが、スカラのバレエは他の主要オペラ座と比べるとあまりうまくないのは今回も残念。
このオペラ、特に最初に述べたように、私にとってはオーケストラが立派であればなんとかなのであるが、シャイー(ずっとマスク着用だったのは年齢を考えての責任意識だろうか)の指揮は文句のつけようがない。激しいところこわいところでも音響は割れたようにならない。それはこのところ技術向上が著しい音の採録とトーン・コントロールにもよるのだろう。
生誕110年 香月泰男展
2月6日~3月27日 練馬区立美術館
香月泰男 (1911-1974)の絵はいくつか見ているが、画業の多くを占める抑留体験を描いたシベリア・シリーズをまとめて見る機会はなく、これは生きている間に山口県にいかないといけないかと思っていた。生誕100年の時はたしか関東で記念展はなかったと思う。10年後に見ることができたのは幸いであった。
画家は帰還後10年近く経ってからこの黒を基調としたシリーズを書き始めたが、同時に日常の身の回りを描いたものも交えた展示になっていて、観る方もあまり極端な理解にならないようになっているとも感じる。
その抑留を描いた多くの黒い絵、兵士の顔、体を見つめるこちらは自己の想像力を試し発見することになる。決して強制はしてこないのだが。
小学生のころラジオで毎日のように舞鶴などへの引き揚げ船のニュースが流れていた。その後、帰ってきた人達の苦労を一応思っても、それ以上ではなかった。
昨年亡くなった立花隆の追悼番組として香月の抑留時のルートを立花がたどった記録(NHK)が再放送された。それも重なって、いろんなものが心底に沈殿していく。
帰還した画家としては横山操がいて、この人の絵はとてつもなくダイナミックで好きなのだが、晩年の静かに自然を描いたものを見ると、その体験は多様なものであったのかもしれない。