メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

フジタが目黒にやって来た

2022-10-29 10:16:40 | 美術
フジタが目黒にやって来た ー作品収集のあゆみー
目黒美術館 10月8日(土)ー11月20日(日)
 
この展覧会はコレクション解体新書Ⅰとして、この美術館の開設にあたって収集を始めた作品(主に洋画)を展示したもので、ここで企画展の折に見たものも少しはあるが、こうして見るとここのポリシーも少しわかって面白い。
 
藤田嗣治の動物群からはじまり、藤田についてはあのフランスでも有名な白い裸婦のような大きなものはないが、藤田と縁があった人たちが所蔵していたちょっと意外な傾向のもの、また絵手紙はとてもいい雰囲気で画家の意外な一面を見せる。

そのほか多くは昭和を中心に、渡欧して洋画を学んだ人たちの作品、必死に吸収しようとしたことが理解できるが、その成果は様々で、こういう人たちの果てに今がある、といっては失礼か。
 
それでもやはり、安井曾太郎、岡田謙三、岡鹿之助など、この中から抜け出てきた人たちの作品はそれなりのものがあることがわかる。
高野三三男の「デコちゃん」(高峰秀子)も絵としてというよりはインパクトがなかなかである。
高島野十郎が二枚あるのは知らなかった。常設展で見るのは珍しい。
 
もっと意外なものでは、デザインのカテゴリーなのか、秋岡芳夫のクライスラーキャビネット。十代のころ、ラジオ少年というほどではなかったが、作ったことはあった。そういうとき、真空管の受信増幅部分は金属シャーシに部品を配して半田付け、適当なキャビネットを買って選んだスピーカーと一緒に備えつける。これらは秋葉原をうろついて物色した結果であったが、その中でクライスラーキャビネット(佐藤電気産業)も候補としてあったのを記憶している。キャビネットの中では少しだけ高級で、これを買ったかどうかは覚えていない。

ちょっと地味ではあるが、こうしてのんびり年月の流れに沿って見るのも悪くない。

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日本の中のマネ

2022-10-16 14:44:05 | 美術
日本の中のマネ(出会い、120年のイメージ)
練馬区立美術館 9月4日(日)~11月3日(木)
日本にあるエドゥアール・マネ(1832-1883)のそう多くはない作品のいくつかと、マネに影響を受けたとみられる画家、そしてマネを題材に使って展開した現代日本の作家作品などからなる展示である。
 
私もマネはモネなどいわゆる印象派の作家とは少し距離を置いて(ひねくれている感じもある)いるものの、彼らに近い存在と見ていた。ところがどうもそうではなくて、マネは手法を提示したり流派に参加したりとうことはほとんどなく、まずはサロンに入選し当時のパリで評価されることをめざしていたようだ。
 
今回の少数の展示でも、まず気がついたのは、画家の眼のよさである。それは顔、ポーズの切り取りとその描き方、タッチなど、見ていておもしろい。デッサンのエッチングからもそれはうかがえる。
 
「草上の昼食」、「オランピア」、「笛を持つ少年」そのほかマネの受容と自らの絵への反映は、当時の日本の洋画界の技術的なレベル、主要テーマへの理解にいまだしというところもあったようだが、それでも取り込もうという動きはなんらかのものを後にもたらしたかと思う。
 
村山槐多が「日曜の遊び」という「草上の昼食」に影響を受けたとみられるなんと1.8mX2.3mもある巨大な絵を残していたのには驚いた。出来としてはほほえましいが。
 
現代作家の批評性がみられるものでは、有名な森村泰昌と福田美蘭、私はどちらかというと福田のものが一見きれいだがその奥に複雑なものを秘めているように感じられた。

そのほか国内にある印象派作品がいくつか展示されていて、その中でははじめて見る「雪の断崖」(クールベ)が秀逸。

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ワーグナー「神々のたそがれ」(バイロイト2022)

2022-10-13 13:47:33 | 音楽一般
ワーグナー:楽劇「神々のたそがれ」
指揮:コルネリウス・マイスター、演出:ヴァレンティン・シュヴァルツ
クレイ・ヒリー(ジークフリート)、イレーネ・テオリン(ブリュンヒルデ)、アルベルト・ドーネン(ハーゲン)、ミヒャエル・クプファーーラデッキー(グンター)、エリザベス・ティーゲ(グートルーネ)、クリスタ・マイアー(ワルトラウテ)、オラファ-・ジグルダルソン(アルベリッヒ)
2022年8月5日 バイロイト音楽祭  2022年9月 NHK BSP
 
「神々のたそがれ」を映像で見るのは久しぶり、おそらくメトロポリタン(ルイージ)、スカラ(バレンボイム)以来だろう。
 
今回のたそがれ、登場人物の服装、風貌、背景、装置など随分現代風、それもかなりカジュアルで安っぽい感じもある。ただ、ワーグナー上演の中心的存在と見られるバイロイトといっても、こういう変わった演出は珍しくなかったと思う。
 
なかでも「指輪」はリングではなくジークフリートとブリュンヒルデの「愛の結晶」というわけか子供になっていて、劇の展開に沿って声はださないまま登場人物に扱われていく。場面によってはヴィジュアルというより意味上からも無理があった。こればかりではないが、全体として充実していた歌唱、オケとあまりにレベルが違っていたということなのか、カーテンコールでシュヴァルツ(演出)はすごい「ブー」を浴びていた。
 
ブリュンヒルデのテオリンは優れていて、本作の中心はブリュンヒルデだからこれはよかった。ジークフリートのヒリーはピンチヒッターらしいが、まずまず。
 
ギービッヒ家のグンター、グートルーネはチャラチャラしていたがこれは演出上の注文だろうか。まあ悪だくみの中心である弟ハーゲンはすごみも出していた。もう少し深さがあってもとは思うけれど。なぜならこの一族の怨念、執念は父アルベリッヒから来ているわけだが、今回観てみてアルベリッヒの登場はそんなに長くないからである。
 
視覚的なところはどうもといった感じだから、どっちかといえば音楽の方に注意しながら、4作の最後に位置する本作までの経過を思い出しながらいろいろ考えてみた。
 
もうウォータンは死んでしまい、当初の神々の世界を知ってここまで来たのはブリュンヒルデ、アルベリッヒ、そしてブリュンヒルデの妹ワルトラウテ(二人はワルキューレ)、あとはラインの乙女たち、ノルンたちである。
 
ウォータンが目指した神々の栄華を実現するはずの黄金をアルベリッヒ争い、ブリュンヒルデは父ウォータンに逆らったり、罰せられたりしながら、ジークフリートを送り出し、ジークフリートはノートゥング’(剣)と指輪を得、今度はブリュンヒルデと愛を交わしたわけだが、最後、アルベリッヒの子孫たる強欲な俗物ハーゲンたちに貶められる。
 
これで終わりではしょうがないから、ブリュンヒルデは火をはなちすべてをかかえてラインに帰っていく。指輪(黄金)はラインの乙女たちに返っていく。
 
なんだかこれより汚い格好だが、ドイツ帝国の終末のようにも見える。ドイツばかりでないかもしれない。
 
指揮のコルネリウスはもう少し拍手があってもよかったと思うし、オケは優れていた。もうこれだけ年月が経つと、世界から集めたメンバーの水準は昔より高いのだろう。
 


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007 / カジノ・ロワイヤル(1967)

2022-10-10 09:35:09 | 映画
007 / カジノ・ロワイヤル (1967) (Casino Royale、1967英米、131分)
製作:チャールズ・K・フェルドマン、監督:ジョン・ヒューストン他4名
音楽:バート・バカラック(作曲)、ハル・デヴィッド(作詞)、ハープ・アルバート&ティファナ・ブラス(演奏)、ダスティ・スプリングフィールド(歌)
ディヴィッド・ニーヴン(ボンド)、ピーター・セラーズ(トレンブル)、ウルスラ・アンドレス(ヴェスパー)、オーソン・ウェルズ(ルシッフル)、;デボラ・カー(ミミ)、ウィリアム・ホールデン、ピーター・オトゥール、ジョン・ヒューストン、ジャン・ポール・ベルモンド
  
先にアップしたダニエル・クレイグ主演の同名作品の時にも書いたが、あれに先立つこの1967年版、20年近く前におそらくレンタルビデオで見てその後も機会を探していたのだが、ようやくDVDで見ることができた。
 
1962年「殺しの番号」のあと同じくショーン・コネリーで映画化されようとしたのだが、諸事情で実現せず、そのかわりと言ってはなんだが、こういうとんでもない形で実現(?)した。
 
豪華キャストで作られたパロディで、まじめに批評してもしょうがないのだが、面白さhいろいろある。製作、監督に多くの人がかかわっているけれど、想像するにこの時はウディ・アレンがいろいろアイデアを出していたのではないか。
  
各国情報部のメンバが次々とやられ、引退していた初代ボンドにお出まし願いたいという依頼が来る。初老にはいろうかというこの役にニ―ヴンがよくあっている。そのあと何人もの偽ボンドなるもの(男女)を登場させ、色仕掛けやドタバタが続いていく。
 
クレイグ版で相手となったヴェスパーはここでは初代ボンド・ガールのウルスラ・アンドレスで、前者よりさらに積極的な役割になっている。存在感もありうまい。
 
対抗する相手、カードの達人ルシッフルはなんとオーソン・ウェルズで、でっぷりした体躯とひょうひょうとした演技で見せる。ただカードはクレイグ版がポーカーだったのに対しここではバカラで、それだけ勝負は単純、ここで盛り上げるという感じではない。
 
盛りだくさんの有名俳優の多くはカメオ出演に近いが、その中でよくこんな役をやったなと思ったのはデボラ・カー、彼女もこういうの一度はやりたかったか。
 
パロディだからもうすこし進行がスムーズで尺も短い方がよかったと思う。特に前半はちょっとくどくて眠くなることもあった。
 
それでもコネリーのシリーズがそんなにでていなかったこの時期に、カーチェイスとそれに使うギミックというかとんでもない装置、宇宙船、(当時のイメージで未来的な)迷宮、迷路、CIAの登場は西部劇の騎兵隊(!)とか、ふざけるにもほどがあるが、これが後のオースティン・パワーズシリーズなどに影響を与えたという説もあり、時間がたつにつれなんらかの評価も出てきたようだ。
 
とはいえ、この映画が史上燦然と輝く不滅のものとなったのはなんといってもバート・バカラックの音楽で、しっとりしたもの、ふざけたもの、そのほか見事というしかない。サウンドトラックのアルバムを聴く価値、買う価値があるものは少ないが、これはその一つ。


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