メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

勝手にしやがれ

2010-08-27 21:38:36 | 映画

「勝手にしやがれ」 (A bout de souffle 、1959仏、95分)
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール、原案:フランソワ・トリュフォー
ジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ
 
かなり前にビデオで見たはずだが、今回またじっくり見てよかった。以前はどうしてこれがヌーヴェル・バーグの先鞭をつけた代表的傑作なのか、という感じであった。そういう観点はともかく、見だしたら目を離せない。
 
まずカメラがいい。映画としては標準のサイズだろうが、その画面を一杯にうまく使っている。顔を相当アップする時以外は、おそらく広角レンズをかなり近くで迫るように使っているのだろう。当然焦点深度も深いから全体にピントがあった感じになり、臨場感が強い。
また最後のベルモンドが倒れるまでのところ、現場にいるようで秀逸。
 
いかにもといういいかげんなくれたチンピラ(ベルモンド)は一つの典型で、それを追っていくテンポがいい。あまり主張を押し付けない、それでいてこの物語の世界としていつの間にかなじんでしまう調子をうまく作り出している。
 
そしてもう一つ、男女の仲の問題。今回こうしてみると、ジーン・セバーグがなんともいい。一つ一つのしぐさ、ベルモンドとの会話のテンポ、男としてはなんともチャーミング。
 
今の歳になってみると、これはよくわかるのである。ジーン・セバーグ、映画界でその後うまく使えたかどうか。
このひと、髪型のせいか痩せぎすのイメージだったけれども、そうではない。「悲しみよこんにちは」でもそれは感じた。思い込みはおそろしい。
 
原題を直訳すれば「息をする限界、万策つきた」ということだろうが、これを「勝手にしやがれ」とは名訳だ。英語の無粋な「Breathless」に比べればなおさら。
 


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なぜフランスでは子どもが増えるのか ( 中島さおり )

2010-08-16 15:57:12 | 本と雑誌

「なぜフランスでは子どもが増えるのか フランス女性のライフスタイル」( 中島さおり 著 2010年5月 講談社現代新書 )
 
著者は1961年生まれ、フランス人の夫とパリ近郊で暮らしている。前に書いた本が、フランスの少子化対策、その成功についてよく参照されたようで、そのあとを受けて書いたものであるが、この本の中で書いているように、必ずしも少子化対策が必要と考えているようではなく、日本における想定質問に答える形でフランスにおける背景事情を探り解説して、この本になったようだ。
 
読む方としてもそのほうが面白い。フランスでも主に普仏戦争以来、戦争のたびに人口減少が政治的にも心配され、対策はいろいろとられたのだが、家庭、男女間の問題(結婚外、結婚後とも)に政治が口を出すことが極端に嫌われるということもあり、直接的に効いた対策があったわけではないようである。 
 
まず男女のあらゆる場面における「ミクシテ」つまり一緒に、パートナー重視という文化、女性が働くことの当然、そういうなかで結婚していようが、未婚であろうが、子供を産んでも、つまり母となっても女性であることに(仕事をし常に男を意識することに)、なんら痛痒を感じない社会のシステムが、結果として出来てきた、ということが大きいようだ。
 
また子供を持っても、3歳から無料保育、公立で高校、大学も無料ということで、日本以上の学歴社会であるフランスでも、一応大人になるまで経済的にはそんなに困らないとのことである。
 
それでもその裏にも著者は目配りを忘れていないから、経済的に恵まれている人たちの住んでいる地域でないと学校のレベルは低く、日本のような学習塾がないので、そのままになってしまうことが多いなどの指摘、バカロレアに関する細かい話など、これらを読むと、フランスに生まれるのも大変だ、と思われてくる。  
 
これを読んでおくと、フランスの映画を見て、特に出てくる女性については、少し理解しやすくなるだろう。


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カステルッチの「神曲」

2010-08-14 17:10:04 | 舞台

ダンテ「神曲」 演出・舞台美術・照明・衣装:ロメオ・カステルッチ、音楽:スコット・ギボンズ
「地獄篇」「煉獄篇」 2008年7月アビニヨン演劇祭 アビニヨン法王庁広場
「天国篇」 2008年11月 チェザーナ(伊)サン・スピリット教会
2010年3月12日NHK教育TV「芸術劇場」で放送されたもの(2時間15分)
 
「神曲」ということで気楽には見られないだろうと録画したまま放っておいたのだが、見てみたら予想とは違って、一気にひきこまれるものであった。もっともフルに収録されているのは「天国篇」だけで、「煉獄篇」はダイジェスト、「天国篇」は演劇ではなくインスタレーションで、その模様が数分紹介されるだけである。
それでもカステルッチの「神曲」がなんであるかをうかがうのには充分だ。
 
カステルッチ(1960~)の神曲はほとんどセリフがないもので、登場する多くの役者が様式化された動きを繰り返したり、また一人が法王庁の壁をよじ登ったり、子供を象徴的に使ったり、というもので、観客に自由に想像させることを意図しているようだ。
 
最初にカステルッチ自身が登場して名乗りをあげる。神曲は読んでいないが、原作でも冒頭でやはりダンテがやっているのと同じらしい。そして吠える犬がたくさん登場し、なんとカステルッチ自身が防護服をつけて犬に噛みつかれるという場面がしばらく続く。警察犬の訓練と同じものだが、あっと驚く。しかし人間以外のものから、ひどい仕打ちを受けるというのはこれだけで、そのあとはカステルッチがインタビューで言っているとおり、人間の多くのペアが抱きついたり(愛し合ったり?和解したり?)、後ろから優雅に寄り添って首を切ったり、高いところで十字の形をし後ろに投身したり、そいう場面で進んでいく。
 
カステルッチが語るには、ダンテが描く地獄も多くは、何か怖いものに苦しめられるというより、人間の中にあるものに苦しむ、人と人との間で苦しむことのようだ。
 
一つ一つは様式化され、同じポーズ、動きの繰り返しで演者ごとに個性はあえて出さないようになっている。ファッション・ショーの動きのよう。
確かにこうして同じ動きを、まだ続くのというくらい繰り返し見ていると、こちらでも自然になにか頭に浮かんでくる。
1時間半と少し、こうして見ていると、湧き出てくるのは人間へのいとおしさ、というと陳腐だが、ほんとうに漠然とそうしたものが定着してくる。カステルッチの罠にうまくはまったということだろうか。
 
一人一人違う群衆、その「衣装」がうまい。基本的にいくつかの単純なパターンで、違いはなく、模様もなく色だけが演者を分けるのだが、多彩な色をアースカラー調に穏やかにした、その色たちのアンサンブルがいい。
 
「煉獄篇」は一転して、家庭内の母と息子、そして父親、の何か成長過程の問題を思わせる劇で、音楽がもう一つの主人公の扱いになっている。後半の展開で、息子が突然長身になり苦悶している父親との逆転が示される。「地獄篇」の最後で燃やされたピアノが舞台におかれ、息子はピアノを習っているようだ。これも何かの象徴だろう。
 
「天国篇」は教会の穴を、観客は一人ずつくぐり、その中の暗黒に目が慣れてそのあと、という過程を体験させるというもののようだ。これは演劇の本質でもあるということらしい。そういえば金沢21世紀美術館でいくつか体験したインスタレーションにも通じるものがある。
 
やはり「地獄篇」に焦点があたるは自然で、これはながく記憶に残るだろう。


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雨のしのび逢い

2010-08-08 21:57:43 | 映画

「雨のしのび逢い」(Moderato Cantabile、1960仏、105分)
監督:ピーター・ブルック、原作:マルグルット・デュラス、脚本:マルグルット・デュラス、ジェラール・ジャルロ
ジャンヌ・モロー、ジャン=ポール・ベルモンド
 
タイトルには記憶があるけれども、見るのは初めて。
原作者の名前を見ると、この倦怠感はもっともっともなのかもしれない。
 
フランスの地方都市、製鉄会社若い社長夫人(ジャンヌ・モロー)とその工場に勤めている彼女より若い男(ジャン=ポール・ベルモンド)が、夫人が幼い息子を連れてピアノを習わせているところの近くで起きた情痴(?)殺人事件現場で出会ったことから少しずつ知り合い、最初は男の方から誘うが、そののち女のほうが夢中になり、男は逃げ腰にななる。
 
それだけならありそうな話だけれども、女は夫の地位からくる生活形態に倦怠感を持っており、情事への思い入れとでもいうのだろうか、次第にのめりこんでいく。
 
しかし映画としては、そのドラマを鮮烈に描くのではなく、部分部分、場面場面をきわめて丁寧に描いていく。もっとも展開はそんなに多くはないのだが。
 
やはりジャンヌ・モロー、このときまだ30過ぎくらいなのだが、このときから何か目覚めてしまった女のありようを演じて、大げさでなく、それでもきわめてセクシー。なにしろほとんどオーバー・コートを着ていて、、、ほかに誰がいるだろうか。
 
そこへいくと、ジャン=ポール・ベルモンドは、年齢相応なら男のほうが幼いことはともかく、このころはまだまだという感がある。
 
マルグリット・デュラスの原作ということから連想出来るほどデュラスを知らないが、おそらくこの映画から受け取る雰囲気が、原作にもあるのだろう。
 
夫人の息子がピアノを習う場面がいい。ソナチネで作曲はディアべり、この映画の音楽のクレジットもディアべり、そうベートーヴェン「ディアべり変奏曲」のディアべりである。もっともサティも何か所かにあったようだが。
 
話をもとにもどすと、この息子、ピアノの先生の前でディアべりのソナチネ、指定のモデラート・カンタービレではなかなか弾けない。先生は、モデラートつまり普段の生活のように、カンタービレつまり歌うように、となんどもしつこく教える。こういう場面は繰り返し出てくる。
そうして見る者はわかってくる。女(母親)が潜在的に求め気づいてくるのも、このModerato Cantabile つまり普段の生活のなかにいて情念への、情事への欲望、これに次第に気づいていくということ。つまり作者のいわんとするところは、、、
 
最後に、カフェに捜しに来た夫の顔が出てこないのは、優れた演出。
 
海べりの散歩道などいたることろに出てくる樹が何かを象徴しているようだが、何だろう。タモ、トネリコに似ているけれども、枝が湾曲しながら上に勢いよく伸びているようだ。
 
さてこの邦題、映画で「雨」はないのだけれど、それでもあえてこうしたのは、映画ファンの注意を引くためもあるだろうが、だまされたとわかってもまあいいかと思ってくれると自信があったのだろう。そうであれば許す。


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