メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

刺青・秘密 (谷崎潤一郎)

2012-05-31 16:40:02 | 本と雑誌

刺青・秘密 (谷崎潤一郎) (新潮文庫)

刺青(1910)、少年(1911)、幇間(1911)、秘密(1911)、異端者の悲しみ(1917)、「二人の稚児」(1918)、母を恋うる記(1919) と、谷崎潤一郎(18886-1965)初期の短編がおさめられている。短編といっても少し長めである。

 

初期といっても、特に江戸から明治あたりの精密で豪華な語彙、そして読者を引き込んでいく練達の文章、これは近代の作家でも抜きんでているかなと、読んだ範囲がそう広くはない私だが、そう想像する。

「刺青」は、刺青師が理想のほりものを作るために、理想の女性を見つけ出し、それを仕上げたときに相手との関係は、、、という、美学に殉じた話で、これが最初に来ると、三島由紀夫はここから来た?と変に想像してしまう。

 

「少年」のおそらく十代初めの男女の危険な遊びがとんでもないところにいく、という話は日本の「恐るべき子供たち」(コクトー)かもしれない。そしてこうした子供たちがもう少し大きくなると同じ作者の「痴人の愛」の子たちになる?とも思える。

 

そんな中で「異端者の悲しみ」には自叙伝的要素があるそうだが、自身の弱みを冷静にとらえることも忘れていない。

 

谷崎の世界には「細雪」から入り、「痴人の愛」、「鍵」、「瘋癲老人日記」と比較的後期のものを主に読んできた。今回こうして初期のものを読むと、日本の作家には珍しく谷崎はまことに最初から最後まで前衛であった。

 


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高橋由一展

2012-05-30 15:59:22 | 美術

近代洋画の開拓者 高橋由一

2012年4月28日(土)~6月24日(日) 東京藝術大学大学美術館

 

高橋由一(1828-1894)を知ったのはこの十数年のこと。私の世代では美術や日本史の教科書に載っていなかったからだろうか。日本のそれも明治維新以降の洋画について興味が出てきてからは、折に触れ注意してみてきた。

この間の印象は、とにかくそういう時代にこういうことをやる情熱、この手法で写実を極めるんだという思いであった。

 

それはこうして由一の集大成を見るとより如実に感じられるし、その仕事量は、特に彼が洋画を始めたときすでに40近くであったことを考えると、驚くべきものである。東北風景図の膨大な量!

 

全体の中で見ると、多くの鮭図から選ばれた3点は、動植物、人物などの中では、思ったよりあっさりしている。以前どこかで見たときには、もう少ししつこいリアリズムだったと思うが。

 

ところでこの人、写実の徹底ということは別として、画家としての才能ということになると、それが一番生きたのは風景画ではないだろうか。

 


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R. シュトラウス「カプリッチョ」(メトロポリタン)

2012-05-29 17:40:11 | 音楽一般

リヒャルト・シュトラウス:歌劇「カプリッチョ」 (台本はシュトラウスとクレメンス・クラウス)

指揮:アンドリュー・デイヴィス、演出:ジョン・コックス

ルネ・フレミング(伯爵令嬢マドレーヌ)、ラッセル・ブローン(詩人オリヴィエ)、ジョゼフ・カイザー(作曲家フラマン)、ピーター・ローズ(劇場支配人・演出家ラ・ローシュ)、モルテン・フランク・ラルセン(伯爵)、サラ・コノリー(女優クレーロン)

2011年4月23日 ニューヨーク・メトロポリタン・歌劇場  2012年2月WOWOW放送録画

 

シュトラウス最後のオペラで1942年初演、上演機会が少ないそうだが、そのため逆に上演されれば放送されるのだろうか、見たのはこれで3回目である。最初は1990年のザルツブルグ音楽祭、次が2004年6月のパリ・オペラ座で、ルネ・フレミングは後者でもマドレーヌを歌っている。

 

伯爵の妹で若い未亡人のマドレーヌを詩人と作曲家が取り合い、詩か音楽かという議論が始まる。そこへ劇場支配人があらわれ、そう簡単なものではなく、自分たちが目に見える形で上演してこそそれらは生きると、延々議論は続いて、マドレーヌも迷う。最後は劇場支配人の提案で、それまでの詩人、作曲家、彼らの議論をオペラにするということになり、最後は舞台にマドレーヌ一人が残り、迷いとも陶酔とも諦観ともつかない甘美な歌をうたうというかたち(これがオペラならでは?)で幕は下りる。

 

パリ・オペラ座の時のブログ(上記リンク)に書いたように、ザルツブルクの公演録画を見たときに、この作ることになったオペラを実は我々は最初から見ていた、最後に気づいたとしても無理はない考えたのだが、パリ・オペラ座のものはそれが演出で強調されすぎているし、反対に今回のものはメトロポリタンらしい豪華な舞台で、演じられる世界は実に見事なのだが、何かやはり演出意図の象徴はほしいところである。

 

注意していると劇場支配人のセリフには、何かこれがそのままそのオペラということを思わせる箇所がいくつかある。

 

ルネ・フレミングはいまでもしっくりとしているけれど、ちょっと賢すぎる印象があるのはよくばりだろうか。この年齢だと、少し前に見たマルシャリン(バラの騎士)のほうが合っているかもしれない。あとは劇場支配人のピーター・ローズ、実際に話を決めていくのはこの人なんで、これだけ達者ならいいんだろうが、印象が強すぎる感もあり、難しいところである。

 

アンドリュー・デイヴィスの指揮は手堅く、この魅力的な、長い一幕(2時間以上!)のオペラをたるみなく聴かせる。それにしても最後のマドレーヌの歌もいいが、特に最初の弦楽だけの前奏曲は何度聴いてもシュトラウスの最高傑作のひとつだろう。コンサートで弦楽6重奏として演奏されることもある。

 

そして、最後に終わるときの「ちょん、ちょん、ちょん」。「カプリッチョ」でこれをやるのは執事だが、見ているものは明らかに「バラの騎士」の小姓を思い浮かべ、にやりとする。

 

それにしても、この「詩か音楽か」を1942年にパリ近郊を舞台にドイツ人のシュトラウスが作ったとは。こういう芸術至上主義(少なくともこの作品をとれば)を貫くとはなんという自信! 強引! タフネス!

戦争でもこの世界が生き残ることを念じたのだろうか。確かに戦後、音楽が復活したのをシュトラウスもみただろうし、「最後の四つの歌」(1948)は「カプリッチョ」の延長ともとれる。ただその一方、「メタモルフォーゼン」(1945年)では後悔、諦念がぐるぐるまわった。

 


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吉田秀和 逝去

2012-05-27 21:50:08 | 音楽一般

吉田秀和が亡くなった。5月22日、98歳。

この人の音楽評論を読み始めてもう半世紀になる。確かこの1~2年前にも何か書いていたのではないだろうか。100歳になって、何を書くかというのも楽しみであったが。

 

高校生の頃、音楽評論家としては高踏的な感じもあってその文章に親しめなかったが、こっちも背伸びしていたからすぐにこの人は他のひとと違うと思い、ずうっと継続して雑誌、朝日新聞、著書など、多くの著作を読むようになった。

 

自身の音楽感から個々の演奏を切っていくのではなく、その演奏家は何をしようとしているのか、結果としてどういう音楽の流れになっているのかを具体的に説明しながら、自らも考え読者に解釈を提示するというスタイルだった。一般向けの音楽評論で、文章中に楽譜を入れたのもこの人が初めてではなかったか。

 

戦後の早い時期に欧米に聴きにいく機会を得て、かの地での一級の演奏会の模様を書いた文章、ベルリン・ドイツ・オペラの来日時にここの上演の意義を的確に指摘したこと、日本ではまったく評価されなかったグレン・グールドについて、その意味を解き明かしてくれたこと、その後アルゲリッチをはじめとするフレッシュな人たちの演奏について、その魅力について書いてくれたことは、今でも鮮やかに記憶している。

 

また、旧来のクラシック音楽ばかりでなく、20世紀の十二音主義、そのほかケージ、ノーノ、シュトックハウゼン、ブーレーズまで、積極的に取り上げた。

 

この人の好みがということでなく、こういう聴き方、受け取り方があると知り、自分でそれを応用してみようとして、聴き方が少しは上達したことは、感謝している。

 

先日、故ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウについて書いたけれども、確か彼がベルリン・ドイツ・オペラで来日したとき、出演が終わってホテルかどこかへ行く車に吉田が乗り合わせFM放送のラジオだろうかピアノコンチェルトの冒頭が聴こえてきたら、ディースカウが「ベートーベンのピアノ協奏曲皇帝」とここまでは普通だが、「ピアノはウィルヘルム・バックハウス、イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルハーモニー」とあて(事実その通りだった)、おもむろにタバコを一服つけた」と、どこかでしゃべっていたか、書いていた。

 

吉田秀和は、若いころ少し年上の小林秀雄、中原中也と一緒だった。小林秀雄はそこそこの年齢まで生きたが、付き合いがあった主だった人たちも大岡昇平、江藤淳、白洲正子といなくなり吉田だけになってしまった。それ以上に中原中也を知っていたなんていう人も吉田だけだっただろう。

 

こういう人たちとの関係も含め、著作はかなりまとまっていて入手もしやすいほうだろう。おそらく書いたものの半分くらいは初出で読んでいると思うが、これからまた時々読みたいと思う。

 

東京文化会館のロビーで休憩時間に、あの特徴あるちょっと長めの白髪(年齢にしては)で少し上を向きながら他の評論家や音楽関係者たちと談笑していたのを何度も見たことを思いだす。


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女優マルキーズ

2012-05-25 18:27:17 | 映画

女優マルキーズ (Marquise 、1997年、フランス・イタリア・スイス・スペイン、120分)

監督:ヴェラ・ベルモン

ソフィー・マルソー(マルキーズ)、ベルナール・ジロドー(モリエール)、ランベール・ウィルソン(ラシーヌ)、パトリック・ティムシット(マルキーズの夫グロ・ルネ)、ティエリー・レルミット(ルイ14世)、レモ・ジローネ(作曲家リュリ)

 

実在したというマルキーズが地方を回っていたモリエール一座のルネ・グロに拾われ一緒になり、当初の色気と踊りだけだったころから次第に女優として成功していく半生を、ルイ14世の周りの登場人物、風俗とともに描いていく。作曲家のリュリも出てくる。

実際にあったことに忠実なのか、ドラマとしてはもう少し単純化、強調してもよかったと思わせるところもある。また、あまりワールドワイドを意識していないのか、スカトロジックな場面が結構ためらいなく出てくる。

 

とはいえ、これはソフィー・マルソーのファンだから見たわけで、彼女のそれも30歳のころの魅力がたっぷり味わえる。考えに考えて演技に入ったというところが全く見えないのが、またいい。

 

そしてここには、喜劇作者モリエールと悲劇作者ラシーヌの対抗があるわけだが、映画の作り手としてはもうすこしモリエールに肩入れしたかったのでは想像するものの、そこは事実が伝えられていて飛躍できなかったのだろう。映画の結末と後味はそれを引きずっているが、やむを得ないか。


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