メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ヒラリー・ハーンのシベリウス

2008-03-18 23:12:25 | 音楽一般
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 作品47 、シェーンベルク:ヴァイオリン協奏曲 作品36
ヴァイオリン:ヒラリー・ハーン、エサ=ペッカ・サロネン指揮スウェーデン放送交響楽団 (DG)
 
まいった。こういうこともまれにあるものだ。このシベリウスは、うまい人の演奏でも、何と言うか冷たい叙情といっても、結局曲想から少し離れて滑っていくことが多いのに、彼女の演奏は冒頭から入り込み、ぴたっと寄り添い、フレーズをつかんで離さず、説得力をもって最後まで持続する。それでいて、聴いていて疲れない。
 
そう、嘗て四十年近く前、ドヴォルザークのチェロ協奏曲、もともと名曲だがロストロポーヴィチとカラヤン・ベルリンフィルの演奏も、そういうものだった。あれは空前絶後。
 
ヒラリー・ハーンの演奏、大分前のバッハ「シャコンヌ」以外そんなに聴いていないけれども、あのバッハも聴くものをつかんで離さない趣があった。
 
もっともだからといって何を弾いてもうまくいくわけではないだろうが、ともかくこのシベリウスでこういう演奏が聴けたというのはうれしい。
 
シェーンベルクの協奏曲は、誰かの演奏で聴いたことはあるだろうが憶えていない。何か大きなものをこちらが受け取ったという曲でもないが、演奏はこなれていて変に神経に障るところはなかった。
 
ところでシベリウスは冬から春にかけて聴きたくなることがあり、年によってはいくつかの曲を連続して聴く。例えば毎週末何かを聴くとか。
今年もちょうど交響曲を1番から5番まで聴いたところであった。作品番号から見ると、この協奏曲は人気がある2番とちょっと小ぶりで凡庸な3番の間になり、あの傑作4番とは大分離れている感はある。しかし、先がちょっと読めない、予定調和的でないシベリウスの特徴はよく出ていて、曲想をぐっとつかんだこの演奏は、やはり傑出したものだ。

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クイーン

2008-03-02 18:20:44 | 映画
「クイーン」(The Queen 、2006年、英・仏・伊、104分)
監督:スティーヴン・フリアーズ
ヘレン・ミレン、マイケル・シーン、ジェームズ・クロムウェル、シルヴィア・シムズ、アレックス・ジェニングズ、ヘレン・マックロリー
 
エリザベス女王とブレア首相との駆け引き、理解、結託のストーリーを、実写も交え、どこまで取材による確証があるのかはわからないが、さもありそうに描いたものである。
 
1997年、ダイアナ元妃の事故死の直前にブレアが首相に就任していたのは、もう忘れていた。
この労働党出身のブレアが、最初は簡単にロンドンに戻らず原則を守り弔意もあらわさない女王に対し、いろいろ働きかけるが、新米首相ゆえのこともありうまくいかず、ブレアよりさらに過激な妻からいろいろ責められる中で、最後は女王と解を見出し、また女王への尊敬も増していく。
 
かなり揺れ動くブレア(マイケル・シーン)となかなか変化を見せないエリザベス女王(ヘレン・ミレン)、これは演技としても対照的なものを要求されるわけだが、二人はなかなか見事に演じている。
有名は大鹿と女王の邂逅は本当にあったのか映画のための創作かはわからないが、このシーンは彼女の唯一といってよい可愛さの表出となっている。これがあるから、最後の意見表明ではむしろ抑えたそれゆえ役柄としては自然な演技が活きたということだろう。
 
この二人の芝居を除けば、あとはそうどうという映画ではない。
 
首相秘書の一人にアフリカ系のスマートな女性がいる。「ラブ・アクチュアリー(2003)」でも別のよく似た容貌の女性が、ブレアを想定した首相(ヒュー・グラント)の秘書役だった。多分、現実にもこういう秘書がいたのだろう。

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日陰者ジュード (トマス・ハーディ)

2008-03-01 19:11:08 | 本と雑誌
トマス・ハーディ「日陰者ジュード(Jude the Obscure)」(川本静子 訳 中公文庫上下)
長い小説が、読者の興味と期待を次々と裏切り続けていく。その結果、想像もしないところに来たという感慨があればいいのだが、そうでもない。少なくとも今の読者にはそうなのではないだろうか。
 
向学心に富む若者とそれに与えられる均等でない機会、それに対する挑戦と挫折、そして結婚制度と宗教の制約、それはこの1895年に発表された小説では赤裸々に書かれているらしく、それに対する特に結婚している男女の実際の営みも含めて言及したところがヴィクトリア朝社会を支える柱に対する反逆として、非難ごうごうになった、と解説に書かれている。
 
これを読むと、有名な作家がこの長い小説を書いたことは少し理解出来るのだが、それでも今から見ると、もっと特に主人公の男女二人に対してはそれも女性(スー)に対しては当時の宗教の位置が思いのほか強かったとしても、もどかしい気分が最後まで抜けない。
また物語の展開として、もっと何かが必要ではなかったか、読者を最後まで引っ張っていくものが。
 
世間から見た不道徳性がハーディをしてこれを最後の小説にし、以後は詩に専念させることになったらしい。
ただ、「テス」など読んでいないからあまり言えないけれども、この小説を読む限り、ハーディの女性観、小説家としての資質に対してあのモームが「お菓子と麦酒」で皮肉った(といわれている)のも、無理ないのかもしれない。
その一方で、この主人公ジュードは、他の小説を思い浮かべると、貧しい出自ながら向学心に燃えるところは、ヘッセ「車輪の下」のハンスとも重なり、教会建築などに進みそうなところは、もっと下って少し前の娯楽小説ケン・フォレット「大聖堂」の主人公にもつながる。
 
それだからかよくわからないが、「ジュード」はイギリスではなかなか人気があるらしい。
まず「ジュード・ジ・オブスキュア」というバラがあって、香りバラとして今人気の品種である。我が家にも鉢がある。
そしてイギリスの俳優ジュード・ロウの本名はDavid Jude Heyworth Law で、ジュードはこの小説とポール・マッカートニーの「ヘイ・ジュード」から取られた。本人の話だそうである。

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