メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ジャズ・ヴォーカル

2011-10-31 12:27:28 | 音楽一般
ジャズ演奏の会にヴォーカルで参加した。
二年ほど前から、ヤマハ「大人の音楽レッスン」でヴォーカルを習っている。題材はポピュラー音楽一般で特にジャズに限っているわけではない。
 
昨年は楽器のコースも含めて発表会をやり、それにも出たのだが、今回はジャズのサックス、トランペットの人たちが主で、ヴォーカルはそこにもぐりこんだという感じ。
現に12組ずつ2部にわかれてやったうち、私が入っている第2部ではヴォーカルは2人のみであった。
会場は横浜馬車道のライブスポットKAGOME、演奏者と客席が同じ高さ、近くていい。 
 
歌ったのは作詞ハル・デヴィッド、作曲バート・バカラックのWIVES AND LOVERS、いわゆるスタンダード・ジャズよりは少し新しい感じのものをやりたかったのと、バカラックはやはり面白いから。
それと、こういうときにバックの人にもスコアを配るのだが、キーを変えると書き換えをしなければならず、我々のこういう機会ではオリジナルのキーで歌えるものに限られてくる。幸いこの曲は、少し高いキーではあるけれどもなんとか許容範囲であった。
 
初心者ゆえ、随分自宅で練習した。お手本はJack Jones、ジャズ・シンガーというよりはわかりやすいポピュラー・シンガー、エンターテイナーで、ほぼ楽譜どおりのジャズ・ワルツ。
もう一つ有名なのは、フランク・シナトラがカウント・ベイシー・オーケストラをバックに編曲と指揮はクインシー・ジョーンズという豪華メンバーのもので、こっちはもっとしゃれているけれども、4ビートになっているからもとの楽譜だとやりにくく、これはやめた。
 
出来はまずまずで、バックのピアノ、ギター、ベース、ドラムスの方々(いずれもこのスクールの先生)には感謝している。さらっと歌うと短く、シンプルすぎるので、間にワンコーラス、インストルメンタルを入れてもらったが、リハーサル時からちょっと変わっていたものの、前のものを録音しておいて慣れていたので、次に入るタイミングは大丈夫だった。特にこういうピアノをバックにすると気持ちがいい。
 
ところで、サックスやトランペットの人たちの演奏を聴いていて思うのだが、こっちのジャズ演奏とジャズ・ヴォーカルは、かなり違うのではないだろうか。
ヴォーカルはやはり歌詞あっての、それを意識したものになるけれども、楽器演奏はほとんど言葉との関係がない。だから、装飾、変奏、アドリブなどが占める部分は聴いていても大きいし、生徒のものも教科書どおりということはまずない。それがヴォーカルだと、たとえばプロのシナトラなどにしても、随分時自由度が大きいが、楽器プレイヤーとは異なる。
 
私が知っている狭い範囲でも、ヴォーカルで比較的楽器に近いのはメル・トーメ、ジョニー・ハートマンといった人たちだろうか。まあ、ジャズに限定されないポピュラー・シンガーでも、聴く側の楽しみはあるので、それがジャズ「演奏」とちょっとちがうといっても別にいいのだけれど。 

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ミスティック・ピザ

2011-10-29 16:31:35 | 映画

ミスティック・ピザ (Mystic Pizza、1988米、103分)
監督:ドナルド・ペトリ、原作:エイミー・ジョーンズ
アナベス・ギッシュ、ジュリア・ロバーツ、リリ・テイラー、コンチャータ・フェレル、 ウイリアム・モーゼス、アダム・ストーク、ヴィンセント・ドノフリオ

(2011年9月WOWOWで放送されたもの)
 
コネティカット州海岸に実在するミスティックという町のミスティック・ピザというピザショップでアルバイトをしている三人娘、二人は姉妹で姉は二十歳過ぎ、妹は優等生でこれからエール大学に入る、もう一人は地元の青年との結婚式途中で突然いやけがさしてキャンセル。
 
姉の方はいつも男をねらっていて、地元を訪れた金持ちのぼんぼんと仲良くなるが、相手にはいいかげんなところがあり、妹の方はベビーシッターの家で、夫婦仲が微妙なところから夫に惹かれていく。
 
そういう三人が、いろいろドタバタしたあげく、道を見つけて歩いていくまでの話。青春ものといえばそうだが、アメリカには、特に東部だからか、この年齢ではまだ質実剛健な部分もしっかりあって、後味のいいドラマになった。日本で作ろうとすると、集団結束の話ならともかく、やんちゃなだけになるか、真面目なだけのはじけたところのない話になってしまうだろう。
タイトルは知っていて見たかったが、今回初めて。
 
ミスティック・ピザという店の名前は、秘伝のスパイスという売りと架けているわけだが、ここの女主人(コンチャータ・フェレル、うまい!)がみんなの中心になっていいて、この店の出入りが話の進行と同期している。舞台でもできる話かもしれない。
 
今の10代の人たちも、これを見るといいと思う。
 
さて、ここではクレジットのトップは妹役のアナベス・ギッシュで、役もそれにあっている(したがってまじめな話になるけれど)。
ここで演技が光っているのはリリ・テイラーで、彼女がいなかったら映画としてはそれほど楽しめないものになっただろう。

 
そしてジュリア・ロバーツはこのとき21歳、本格的な映画にはこれが多分初出演で、背が高く目立つことは目立っているけれども、特に美人でもなく、主役はあまり想像できない。だから2年後「プリティ・ウーマン」でああなったのは、よほどプロデューサーに見る目があったのだろう。


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若草の萌えるころ

2011-10-17 16:22:54 | 映画
「若草の萌えるころ」 (Tante Zita、1968仏、94分)
監督:ロベール・アンリコ、原作:リュシエンヌ・アモン、脚本:ロベール・アンリコ他、音楽:フランソワ・ド・ルーベ
ジョアンナ・シムカス(アニー)、カティーナ・パクシヌー(ジタ)、ホセ・マリア・フロタッツ(シモン)、ベルナール・フレッソン(ボニ)、ポール・クローシェ(医師ベルナール)、シュザンヌ・フロン(母)
(2011年9月、BS-TBSで放送されたもの)
 
大学で中国語を学んでいるアニーは母と伯母(ジタ)と住んでいる。パリの中流階級のなかなかしゃれたアパルトマン。子どもにピアノを教えている伯母が脳卒中で倒れ、アニーが一晩外で過ごす羽目になる間に死んでしまう。その一晩の、彼女が大人になる体験と幻想をおりまぜた映画である。
 
製作年1968ということは、実質的に作られたのは五月革命直前だろうか。中国語の教室、毛沢東の話を説く第三世界の学生、しかしパリの夜はまだ若者が楽しそうに遊んでいて、風俗的には一番楽しかったころだろうか。アニーが着ているものもこのころのデザインが反映したもののようだ。
 
回想で出てくる伯母の話によると、弟すなわち主人公の父はスペイン内乱時に伯母とともに共和国派を支援していて、何度かつかまり、最後は消息不明、おそらく死んでいる。
親の世代のスペイン内乱、主人公の世代における対抗文化への予感、そういうものと、パリの夜の若者の風俗を、ロベール・アンリコの頭の中にあるわまざまなイメージを織り交ぜながらコラージュした、ものだろうか。
 
もっとも話しの大筋は、甘酸っぱい青春もので、あまり正面切って主張を表に出すことがきらいなのかも知れない。音楽はそれほど目立たないが、映画としては「アメリカングラフィティ」のパリ版といってもよい。
 
またアンリコからすると、あの名作「冒険者たち」(Les Aventuriers, 1967)のあと、ジョアンナ・シムカスを使ってデザートを作ろうという気はなかったか。 
「冒険者たち」は、ちょっと世の中からはずれたリノ・ヴァンチュラ、アラン・ドロン、ジョアンナ・シムカスというそれぞれの世代を代表する三人の一勝負、その美しくも悲痛な崩壊を描いた青春映画の傑作だが、ジョアンナ・シムカスだけがちょっと出番不足の感があったから、これは製作サイドから考えれば当然かもしれない。
 
シムカスはカナダ出身でフランスの主演女優のなかでは長身、ボーイッシュだが、あの世代で得難いスターになると思った。しかしその後はあまり出てくることなく、シドニー・ポワチエと結婚したらしい。その後、フランスでアイドル的な女優はあまりいない。
 
さて、伯母のジタを演じているカティーナ・パクシヌー、どこかできいた名前と思ったら、「誰がために鐘は鳴る」(1943)で山岳ゲリラの仕切り役になり印象的な演技をしていた。伯母の回想によると彼女の弟(アニーの父)はスペインで橋を爆破したという。「誰がために鐘は鳴る」では彼女のグループと主人公(ゲイリー・クーパー)が橋を爆破する。この連想は偶然ではなく意識的なものだろう。
 

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大人は判ってくれない

2011-10-16 10:24:38 | 映画
「大人は判ってくれない」(1959、仏、97分、Les Quatre Cents Coups)
監督:フランソワ・トリュフォー、脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー、撮影:アンリ・ドカエ、音楽:ジャン・コンスタンタン
ジャン=ピエール・レオ(少年)、アルベール・レミー(父親)、クレール・モーリエ(母親)、ギィ・ドゥコンブル(フランス語教師)
 
見ることが出来てよかった(WOWOW)。もっとも「判ってくれない、判ってくれ」という強い主張かと思ったら、またそういう若者が「切れた」表現かと思ったらちがっていて、どちらかといえば「大人には判らない、判ってやれない」ということを、大人を抜け出したトリュフォー(1932-1984)が思いのほか丁寧に描いた、今から見ればやはり傑作というほかないものである。
 
警察にやっかいになる後半にくらべ、特に前半はこの子がどういう家庭生活、学校生活、友達付き合いをしているか、じっくりと描きながら飽きのこない進行だ。
また、画面をうまく使って、明確にわかる前にそれとなく前触れを出しているところなど、しかけもにくい。例えば、少年が夕方に学校から帰ってきて誰もいない、すぐに食器を三人分テーブルの上にセットする。ここでおそらく一人っ子で両親は共働きだろうということがわかる。
また、扉近くの壁に「モンテカルロ・ラリー」のペナントが貼ってあり、この歳にしては?と思っていたら、父親がかなりラリーに熱心で日曜はほとんどそれにかまけ少年の相手をあまりしてないことがわかってくる。
 
この映画を見たのは2回目、公開された時そしてそれから話題になっていたのは知っていたが、今とちがってTVやビデオで公開されることもなく、名画上映もたしかあまりなかったと思う。多分大学生のとき、映画好きな友人が教え誘ってくれ、今の東京国立近代美術館フィルムセンターで上映された時に初めて見た(おそらく美術館部門とまだ京橋で一緒だったと思う)。とはいえ、内容はもうほとんど覚えておらず、唯一警察から載せられた車の柵の中の顔をカメラにとらえたところくらいである。それもこれがラストと勘違いしていたのだから、記憶はあてにならない。
 
ラストの少年が走るシーンの延々とした長回し、この時の彼の走る姿が見事で、その背筋で彼が僅かながら大人になってきていることがわかる。そしてそれはFINとなる彼のアップにつながる。 
 
見ていてなかなかわからなかったのは、彼が何歳?ということ。学校でクラスは男だけ、公立?私立?、おそらく中学1年、13歳くらいだろう。
 
それにしても、国語の授業、かなり厳しいが、その内容は高度で、さすがフランス、今はどうなのか。
 
原題は400の殴打? 英語のタイトルはそのままThe 400 Blows だが、400というのは何か意味があるのか、わからない。

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夜鳴きうぐいす (ストラヴィンスキー)

2011-10-14 14:26:59 | 音楽一般

歌劇 夜鳴きうぐいす (ストラヴィンスキー)
エクサン・プロバンス音楽祭2010 
指揮:大野和士 リヨン国立歌劇場管弦楽団 リヨン国立歌劇場合唱団
演出:ロベール・ルパージュ
人形製作:マイケル・カリー、人形振付:マルタン・ジュネスト、影絵製作:フィリップ・ボウ
出演:夜鳴きうぐいす(オリガ・ペレチャトコ)、料理人(エレナ・セメノヴァ)、死に神(スヴェトラーナ・シロヴァ)、漁師(エドガラス・モントヴィダス)、中国皇帝(イリヤ・バニク)、侍従(ナビル・スリマン)、僧侶(ユーリ・ヴォロビエフ)
収録:2010年6月、7月 プロバンス大劇場   放送:2011年9月3日 NHK BSプレミアム
 
初めて見聞きするストラヴィンスキーの作品、タイトルだけはきいたことがある。1908年~1914年にわたって作曲されたものらしく、あの「春の祭典」の前後にあたる。とはいえ春の祭典ほどの爆発的なところはない。アンデルセンの原作をもとに作られたロシア語の原案とか。約1時間である。
 
漁師が見つけた夜鳴きうぐいすのことを皇帝のまわりの人たちが聞きつけ皇帝のそばで歌わせる。皇帝は喜び、うぐいすに褒美と地位を与えようとするが、うぐいすは欲しくないという。そこに日本から使節が別のうぐいすを贈り物として持ってくると、皇帝は夜鳴きうぐいすを追いやってしまう。ところがその後皇帝は死に神にとりつかれ臥せってしまう。そこへ夜鳴きうぐいすが戻ってきて歌い続けると死に神は力を失い、皇帝はよみがえる。
 
話しとしてはシンプルで、夜鳴きうぐいすはおそらく皇帝やそのほかの人たちにある美しいもの、よきものへの憧れということだろうか。
 
さてこの舞台、まずはコンサートとして、オーケストラ、クラリネット、声楽による
ラグタイム、クラリネット独奏のための三つの小品、おどけた歌、バリモントによる二つの詩、ねこの子守唄、四つのロシア農民の歌、きつね
が演奏され、次第にオペラに入っていきそうな雰囲気であるが、それはそのとおりで、男性コーラスは騎馬兵のような衣裳、庶民の衣裳の女たちは洗い場だろうか水に足をつけたまま歌う。
ここで水を出したのはオペラへの導線だったことに後で気がつく。
確か最後の2曲あたりで、曲芸まがいのダンス、それを映し出す影絵が見る者をひきこむ。ここは現実からこのオペラの童話というかそういう世界への序奏。
 
そしてオペラが始まって驚くのは、登場人物がみな下半身をプールのような水の中におき、、扮装して歌うのだが、その動作表現は彼らが持って操る人形によっている。特に漁師の人形とその操作は、これはもう文楽の世界で、TVで見ることによる利点とともに、まいったというほかない。
死に神は巨大なしかけで歌手は姿が見えない、そして皇帝は最後陸に上がって歌う、その他の人たちは全員水の中にとどまる。
夜鳴きうぐいすだけが、上の方で人の姿で歌い、人々のそばで小さいフィギュアが動かされる。 
 
夜鳴きうぐいすは美声と長丁場をのりきるスタミナが要求されるがオリガ・ペレチャトコは見事、そして漁師のエドガラス・モントヴィダスはどうやってあの人形操りを習得したのだろうか。
 
大野和士はすっきりとした響きとしなやかで推進力ある進行で、最後まであきずに聴かせた。こういう仕事、経験は今後生きるだろう。
 
演出のロベール・ルパージュは、調べてみるとシルク・デュ・ソレイユも演出するマルチ・タレントらしい。そういわれてみるとこの演出はなるほどである。またオペラ劇場でのレパートリーにするには難しい今回の舞台だが、こういう音楽祭なら可能かもしれない。そういうことをやってのけるのは大したものである。またこれをTV収録し、見ることが出来たのはありがたい。

そしてストラヴィンスキーの音楽、やはり19世紀の天才たちが成し遂げた管弦楽法のさらに上をいくものはできていた、ということを痛感する。ストラヴィンスキーでは、リズムを別にすればあまりそういうところを意識しなかったが、リムスキー・コルサコフを経て、この人、そしてプロコフィエフ、ドイツではリヒャルト・シュトラウス、今この時期から100年経ってみると、この人たちの成し遂げたものは、並大抵なものではなかったのだ。


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