メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ローマ人の物語(塩野七生)

2007-03-31 22:46:04 | 本と雑誌
「ローマ世界の終焉(ローマ人の物語ⅩⅤ)」(塩野七生)
 
6世紀中、ついにローマも終焉をむかえた。
著者が1年1巻書き続けた「ローマ人の物語」もこの15巻で終わりである。
 
ほぼ刊行にあわせて読み終えてどうかということを、簡単に記すわけにもいかないし、本当はもう一回通して読まないと豊富な内容を受け止めることは出来ないのだろう。
 
ここは、全体から受けた要点、そのキーワードを以下3つあげておこう。
1.寛容
2.一神教
3.物語(歴史ではなく)
 
ローマがかくも巨大な地域を長く支配でき、繁栄したのは、制覇した地域に対し、抵抗しなければ寛容を持って臨み、他民族もローマ人に組み入れることによって、そのモティベーションの維持と様々なローマ方式の浸透に成功したのだ。
 
この連作であらためて想うのは一神教というものの特異性とその恐ろしさである。考えてみれば、世界の中でここに扱われているユダヤ教、キリスト教、そしてローマ終焉と機を一にして立ち上がるイスラム教、これらの他に一神教は何があるか。しかもこの3つにとって旧約聖書は共通の聖典である。
もう一つの一神教が共産主義ということも可能だが、これもユダヤ教、キリスト教なしには無かっただろう。
 
そして、著者は「歴史」という言葉をあまり使わない。それはヴェネティアの興亡を書いた「海の都の物語」にも共通している。考えてみれば歴史というモノがあるわけではないし、歴史というものは本のタイトル、国が主導する教科の題名、という以外に何かあるのか。その呪縛から離れることを考えると、見える世界は違ってくるはずだ。
塩野七生がこのローマの推移を書くのに15巻もかかったということは、実在する年代記などの記録、法典、遺跡、彫像、コインなど、できるだけ、観念的でないものを材料にして、観念的にならない記述を心がけたからだろう。それがこんなに長いものを読ませた所以でもある。
 

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かもめ食堂

2007-03-27 22:20:48 | 映画
「かもめ食堂」(Roukala Lokki 、2005年、102分)
監督・脚本:荻上直子、原作:群ようこ
小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ
 
異国に入り込んで、そこにお客としていろいろな人たちが、こちらの事情などなにもわからず次々と登場する。いわばロード・ムービーの逆みたいな映画、こちらと外界がどう形成されていくのか、かろうじて最後まで飽きることなく見ることが出来た。
 
何故かフィンランドはヘルシンキに来ておにぎり食堂を開いた小林聡美、そこに半分押し掛け、半分引っ張り込まれた片桐はいり、本当に少しずつ来はじめる客たちも、どうということなく、その中に少し変な要素が入ってくる、このバランス感、テンポが絶妙なのだろう。結果から判断すると。
 
そして、展開し始めるのは、手荷物のスーツケースが出てこないというトラブルのタイミングでここに登場するもたいまさこ、この人独特のしゃべりかた、テンポ、そしてそれにアタッチしていくつか出てくるシュールな場面、これが最後まで見るものを引っ張っていく。
  
結末は特に変ったことないほのぼの調だが。
見終わってからは、ヘルシンキが選ばれたことに納得。

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バッテリー

2007-03-21 21:59:47 | 映画
「バッテリー」(2006、118分)
監督:滝田洋二郎、原作:あさのあつこ、脚本:森下直
林遣都、山田健太、鑓田晟裕、蓮佛美沙子、萩原聖人、上原美佐、濱田マリ、岸谷五朗、天海祐希、菅原文太、岸部一徳
 
中学生の世界、その孤独と外界との接触を苦労して確立していく過程を、作者の大人の頭でいじることなく、また大人の登場人物にもいじらせることなく、描ききった。原作が優れていたからというのが半分だろうが、それをうまく活かし、映像のい美しさ、その細部の神を画面に宿らせたことに、感銘を受ける。
 
小学生で飛び切りの才能を持つピッチャー巧が、病弱の弟のこともあって家族で岡山に引越し、中学に入る。彼は有名だったらしく引越しのときに早くもなかなか捕球が難しい彼の速球をなんとか捕れる同年の豪と出会い、同じ中学の野球部に入る。
そして、並でない球の威力ゆえに、ストーリーは様々に展開する。監督(教師)、上級生、他校の強打者、兄と野球にあこがれる弟、そして最も理解し合っていたはずのキャッチャーとの間に生じていく亀裂、波紋。
 
現実にはどこかでもっと大人が介入しなければ、ことは解決しないだろう。だがその解決というのは何なのか、もともと人間と人間との間には何があるのか、それらに対して作者がどこまでも向き合っていることが、見ているものにはわかる。そして、たとえこの結末は物語の中のことだとしても、そうありたいという思いは自然に伝わってくるのだ。
 
ピッチャー役の林遣都は、目がきれいで、投球時の垂直な背筋が崩れないこと、走るときに足が真っ直ぐでまったくぶれないこと、そして飛び切りのエース故の孤独、まさにこの役になりきった。キャッチャー役の山田健太はどれだけの多くのオーディションで見つけられたのだろうか。よくこの子が見つかった。体躯、性格、表情、台詞とも、通常のドラマだったら彼が主人公かもしれない。
 
それにしても、通常ならもっと観念的な要素がでてくるところを、こうして少年達の視線で描ききるものがもっと出てくるといい。しばらく見かけない「たけくらべ」(樋口一葉)とか。
 
カメラに向かって何度も飛んでくる快速球、その迫力、そして岡山の田舎町、いい背景である。
 
祝日とあって、子供連れも多かったが、始まってしばらくすると皆集中しざわつきもなく、クレジットが消え明るくなるまで誰一人立つ人がいなかった。

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金沢21世紀美術館

2007-03-20 22:38:36 | 美術
金沢21世紀美術館に行くのは約1年ぶり2回目である。
相変わらずの盛況、現代アート主体で出来るだけこれを継続してほしいものである。そうすると何かが見えてくる。そうなるとこちらも気軽に遊んでみようという気になる。
常設展扱いのものも、半分近くは以前と異なるもので、なかでも奈良美智が半年ほど金沢に滞在して作った一室と屋外のカフェは、この21日までだったから、幸運というべきだろう。
 
Moonlight Serenade と題した小屋の上の黄色(月の色)の女の子の顔と、その下にあるいくつかの白いプラスティックの頭、小屋の中は奈良のアトリエ。女の子は頭の中に何か重いものが一杯つまって怒っているようないつもの顔よりは心なしか柔和で、たまたま別の展示の部屋で見かけた奈良本人とよく似ていた。
また奈良が作るPup(子犬) Up the Dog という巨大な犬のぬいぐるみの部屋では、子供に様々な色・サイズのぬいぐるみが貸し出され、それを着たまま館内を見て回るという仕掛けが人気であった。どの子が着てもかわいいものである。
 
その他、田中敦子(1935-2005)のレコード盤状のものを針がトレースし金属片の配置によって導通がくると部屋の特定のところにあるベルがなるという作品は、あたかも明和電機の前史というべきもの。たまたま売店で明和電機の定番を発見し、笑ってしまった。
 
企画展(600円でこれを含み全部見ることが出来る)は「リアル・ユートピア~無限の物語」で、イ・ブル、草間彌生、岸本清子、木村太陽の四人で構成されている。草間以外は名前を聞くのもはじめて。
 
イ・ブル(1964~)の空間を贅沢に使った、それも壁と同じ白主体の巨大なオブジェ、線画風のもの、なにやら有機的でエロティック。
 
草間彌生(1929~)は20世紀前衛そのもので歳を重ねても前衛なのはいい。蛍光が光る部屋はゆっくり味わうことが出来る。
 
岸本清子(1939-1988)は戦前生まれだが、ゴリラ、怪獣のイメージが一世代前への郷愁を誘う。
 
木村太陽(1970~)では部屋の中央のほぼ円の中に方向自在滑車が頭になっているハトと思われるものを沢山置き、その上を1m四方平底の荷台上のものを動かすと、それがハトたちの上を無事に滑っていくという意味ありげな作品。
 
一通り見終わって売店に入り見ていると、何故かカズオ・イシグロの「私を離さないで」が売られており、ポップに「リアル・ユートピア~無限の物語」の企画者はこれに触発されたとあった。
後から美術館のサイトを探してみたら確かに企画の意図が述べられていた。
しかし読んでもよくわからない。わからないが、この作品たちとこの小説がイメージとしてつながるというのは、多少理解できる。
ただ、「私を離さないで」の主人公はユートピアを想っていない、だから読むものに感銘を与えるのだが。
 
なお、無料スペースにある加賀友禅をイメージしたの色と文様からなる大きな壁、そしてその文様を切り出して貼り付けた多くのロッキングチェア、ここは休憩場所でもあるのだが、椅子をゆすりながら光庭を眺めるのは、天気がよいこともあり悦楽であった。マイケル・リンの作品。

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リヒテル/ブリテン/モーツアルト

2007-03-15 22:26:08 | 音楽一般
モーツアルト: ピアノ協奏曲第22番(K482)、ピアノ協奏曲第27番(K595)、弦楽合奏のためのアダージョとフーガ(K546)
ピアノ: スヴィアトスラフ・リヒテル、ベンジャミン・ブリテン指揮イギリス室内管弦楽団
いずれも英オルドバラ音楽祭のライブ録音(BBC LEGENDS)、27番のみ1965年、その他は1967年。
 
まず始まって、ブリテンのモーツアルトっていいなと感じる。特にピアノコンチェルトだとピアニストがいい気持ちで入ってくるように出来るかどうか、そこの出来がいい。専門の名指揮者でモーツアルトの協奏曲だとあんまりうまくない、だからバレンボイムをはじめ、自分で指揮したくなる人も多いのだろう。
 
リヒテルという人は、モーツアルトのコンチェルトを積極的に弾きたいというタイプではないように思う。そういう人が次第に乗せられてきて、27番など彼には珍しくテンポも速めになってくる。
22番目でも1楽章の中盤からのピアノとオーケストラの調和がきれいだ。
 
しかし、一番のききものはなんといっても22番第1楽章のカデンツア。
始まってすぐにこれはモーツアルトでも、その他古典派の作でもなく、また誰か名ピアニストの作でもないのがわかる。
20世紀の作曲家であるのはまちがいない。曲想からしてプロコフィエフ? それとも指揮をしているブリテン?
 
後でリーフレットを読んでみたら、やはりブリテンで、しかもモーツアルとへの concern よりはリヒテルの personality を重視したとのことである。ちょっとプロコフィエフ風というのはその結果かもしれない。
でもなかなかいいカデンツアである。そしてこういうカデンツアのすわりがいいのは、この種のコンチェルトの様式におけるカデンツアのポジションそのものにもあるのだろう。
 
アダージョとフーガはなんとも表現が濃い。でもこれはこの曲が本来もっていたものとブリテンのもの双方からの結果だ。
 
リヒテルによるモーツアルトのコンチェルトは、ザンデルリンクとやった20番の他ほとんど入手困難だった。もっとも演奏した曲も少数で限られている。この二つも存在は知っていたが長らく廃盤になっていたので、今回の発売はうれしい。

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