メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

マゼールのバッハ「管弦楽組曲 全曲」

2010-06-23 16:33:21 | 音楽一般
バッハ:管弦楽組曲 第1番~第4番 全曲
ロリン・マゼール指揮ベルリン放送交響楽団 (1965年11月録音)
(TOWER CLASSICAL)
 
これは好きな人が多い録音だが、日本で最初にLPレコードが出たあと、2番と3番は今も私が持っている廉価盤(900円)としておそらく1970年代に出た後、輸入盤CDでも2番と3番のみであった。このCDも持っているが、1番と4番も聞きたいと思っていた。
 
同じ思いを持っている人はいるらしく、そういう企画の隙間を狙って数年前からタワーレコードが自主企画で盤元と交渉して出しているシリーズでようやくこの全曲が出た。2枚組1500円ということで、半分ダブりはあるものの買い求めた。
 
フルートが活躍する2番、G線上のアリアがある3番の人気はわかるけれども、1番も4番もどうして、いい曲である。
なにしろ4曲とも長い序曲が豪壮ですばらしい。
これからの蒸し暑い夏など、まず午前中に聴くのに好適だ。
 
マゼールの指揮は4曲とも豪壮感、みずみずしさ、的確なテンポ、よどみのなさなど、おそらく彼の指揮者人生のなかでも特別なものではないだろうか。ブランデンブルグ協奏曲、ロ短調ミサ曲、ヘンデル「水上の音楽」「王宮の花火の音楽」と、このあとは確か録音しなかったのではないか。
 
マゼールは1963年、カール・ベームとともにベルリン・ドイツ・オペラで初来日し、「トリスタンとイゾルデ」を振った(やはり早熟!)。この機会に東京交響楽団で振ったレスピーギ「ローマの松」はTV放送され、そのバトンがまあかっこいいと、当時のうるさい私たち高校生の評判になったことをよく覚えている。
 
それから、当時の緊迫した西ベルリンでベルリンフィルにも対抗心があったであろうこのオーケストラのいい意味での気負い、それはまだ30代のマゼール(1930- )と共通であり、加えて録音チームの、1960年ころから普通になったステレオ録音技術でいい音をとってやろうという気迫が伝わる、いわゆる音が前に出てくる録音である。
 
それとうれしいのは、ここでソロでトランペットのソロを吹いているのがモーリス・アンドレ。クラシックのトランペットで古今もっとも名の知られた人ではないか。
  
このCDはタワーレコードがUNIVERSALと交渉して出しているものだが、原盤はDECCA(おそらく英)の表示である。DECCAが蘭PHILIPSを買収したんだろうか。このパッケージは不思議な感じがする。

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告白 (追加)

2010-06-21 09:28:02 | 映画

昨日の映画「告白」、中島哲也による映像と音の組み合わせ、そのテンポについて、思い出したこと。

冒頭の教室場面、教師の松たか子が学年最後の話を始め、子供を殺されたことを話していく、この長い場面。ここで一気に観客を引き込む。

話の最中、生徒たちは勝手に話し、勝手に動く(いかにも)。昔なら「うるさい」と一喝(一つではだめか?)するか、チョーク投げるか、そっちにいくが、ここはかまわずしゃべり続け、映画の観客には、音声のコントロールで生徒、教師双方の声と音がうまく入るようにしている。これは流れを断ち切らない、そして映画ならではのうまい手法。他の人でも使うかもしれないが。

ここというところで松たか子は持っている本を立てて教壇にポンと落とす、その音で一瞬シーンとなる。うまい。そして話のかんどころで「命」という大きな字を黒板に書くのだが、最後の真ん中たて線のところで、あのいやなこすり音が大きく響き、生徒に衝撃を与える。この「命」は最後への伏線になっている。


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告白

2010-06-20 18:02:05 | 映画
「告白」(2010年東宝、106分)
監督・脚本:中島哲也、原作:湊かなえ
松たか子、木村佳乃、岡田将生
 
原作のベストセラー「告白」は読んでいて、あの「下妻物語」、「嫌われ松子の一生」の中島哲也がこれをつくるにあたり、主役女教師を松たか子にした?!と聞いて、これは見なければなるまいと思った。
 
そう、これほど淡々と熱演など感じさせずに、このこわい世界を見せてくる、というのに、彼女以外に誰が、と思わせるほどの出来である。
 
原作は決して後味がいいものではなく、それは作者も意図したことであるけれども、この映画も、中学生のいじめ、陰湿、少年ゆえに刑罰の対象にならないなどということを、真剣に考えさせるというよりは、その前に退屈しない話の連続を、さまざまな映像、カットの工夫で見せる。ここは中島哲也、衰えていないし、今の中学生への視点も容赦がない。
 
後半がすこしくどいのは、同じ内容を、話者を変えて告白させるという原作をかなり忠実に受け継いでいるからだろうか。小説と違って、ここは難しい。文章の世界では、話者、文体というものがこうまで効いてくるのだろうか。
 
読者にすこしゆだねる部分を残した最後は、文章である原作とは少し違った方法になっている。
 
まずは飽きないで最後まで見られた映画だが、こういう世界があったことは後でときどき思い出すだろう。
 
久しぶりに館内は盛況。

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リヒテルのガーシュウィン

2010-06-11 10:55:03 | 音楽一般
ガーシュウィン:ピアノ協奏曲ヘ調
サン=サーンス:ピアノ協奏曲第5番 エジプト風
ピアノ:スヴィヤトスラフ・リヒテル、クリストフ・エッシェンバッハ指揮シュトゥットガルト放送響
1993年5月、シュヴェチンゲン音楽祭
(Hanssler Classic)
 
こういうものが出てくるのは楽しい。リヒテル(1915-1997)が最晩年にガーシュウィンとは、そしてラプソディー・イン・ブルーなんかと比べるとポピュラーとはいえない、私も耳になじんでいない、この協奏曲というのは。
なにしろ晩年は、小さい会場で照明はろうそく一つ、弾くのはグリーグの抒情小曲集というイメージがあったから。
 
こういうの珍盤って言っても、世紀の巨匠に失礼ではないだろう。
しゃれている演奏というようり、まじめな演奏で、これはガーシュウィンもクラシックとして書いた曲だろうから、そう違和感はない。それにリヒテルが弾いたことはガーシュウィンにとっても名誉だろう。
 
ただ、アメリカの音楽で普通の後拍にアクセントがあるというか場合によってはタメをつくるというか、そういうところがさらに遅れ気味、強すぎという感じは少しある。
リヒテルがそうなのか、指揮が少し前にいってしまっているからそうきこえるのか、それはわからない。
 
思い出して手元にあったピアノがグリモー、ジンマン指揮ボルティモア響のCDを聴いてみた。こっちはもっとスケール感があり、のびやかで、ピアノの軽快、カップリングのラヴェル(協奏曲)とマッチしているともいえる。
ただ映画音楽風といってしまえばそうかもしれない。
  
そうこれは、バンクーバーでキム・ヨナがショートの007に続くファイナルで使った曲である。使うとすればこの2つの演奏の中間くらいが無難なんだろうか。それにしても、誰だか知らないが、よくこの曲を見つけて採用したものである。
  
サン=サーンスの曲もこのCDだけ見るとおやっと思うだろうが、こっちは40年前の録音(コンドラシン指揮、モスクワ)がメロディアにある。これと比べると、今度のほうがより軽やか、優雅だ。

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REMIX (ローレンス・レッシグ)

2010-06-03 15:36:44 | 本と雑誌
「REMIX ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方」(ローレンス・レッシグ著、 山形浩生訳、翔泳社、2010年2月)
 
ローレンス・レッシグ(Lawrence Lessig  1961-)はスタンフォード大学ロースクール教授の時代から、インターネット時代におけるコピー・ライト(複製権)の新しいありかた、特にパブリック・ドメインとの関係をクリエイターが自主的に表明できる仕組みとそれを運営する組織として「クリエイティブ・コモンズ」を立ち上げたことで、この分野では有名である。
 
私も代表作の「CODE」、「コモンズ」、「FREE CULTURE」を読んだことはないが、著者の講演を聴いたこともあり、またクリエイティブ・コモンズ・ジャパンとは過去に付き合いもあったから、その主張についてはおよそ理解している。
 
今回の「リミックス」は、この分野での最後の著作(?)だそうだ。スタンフォードからハーヴァードに移っていることから、次は政治の分野に行くのではとも言われている。これまでの主張もまとめているということから読んでみた。
 
どうもこれはいくつかの講演をベースに、口述筆記を加えたような感じだ。事例は多いが、饒舌であり、繰り返しが多く、体系的なところがないから、訳が日本語としてこなれていないこともあって読みやすくはない。
 
まず最初のあたりから、この本は子供たちを犯罪者にしないために書いたというような記述がある。インターネット上で得られるものをリミックスした創作が多少評判になると、それがコピー・ライトの許諾を得ているのかどうかが追求され、有能な弁護士がよってたかる。その創作が金儲けを意図したものでなく、オリジナル素材の権利者に実質的な損害がなくてもである。そして子供たちは犯罪者になってしまう。
喫煙、飲酒、多少の暴力などと変わらない。インターネット時代に、誰もがやりがちなこんなことで、こうされていいのか。なるほど。
 
そこから、いっそのところアマチュアにはコピーはフリーにしてしまったほうがいいのでは、というのが一つの主張。
これは社会的なコストから、そして実質的に経済的損害は非常に小さいということから、そういう主張も出てくるのかな、とは思う。
ただし、ここで訳者があとがきで言っているように、いささかレッシグの言い方は暴走気味で、そこまでの主張で進んでは現実味があるのかどうか。
学術論文なんかは彼が言うように、いくらでもコピーしてくれたほうが原著者には役にたち、損害はおそらく誰にもない、という場合もあるから、一律にコピーの規制ということはないほうがよいし、フェア・ユースというものも、いちいち法的適合性を神経質に判断してということがあるから、彼がいうように逆に考えてもよいかもしれない。
このあたりは、著作権領域の学者というより憲法学者という感じがする。
 
クリエイティブ・コモンズのようなクリエイターが自主的に権利を主張できるようにすること(多くの場合は、非営利ならフリー、ただしクレジットはつける、そしてその成果も非営利ならフリーとする)、長期的には著作権を自動付与から申請による付与にする(これは後に著作権を捜しても見つからず合法な再利用が困難になることを防ぐため)、非商業的な利用は著作権の対象からはずし規制を全体にもっと単純にすること、などである。
 
ただもう一つ言われているファイル共有を合法化してしまうというのは、いくつかのケースで現在有罪とされているものに疑問はあるものの、ここまでラディカルに合法としていいものかどうか。
 
なお、インターネット文化の中で見られるさまざまな事例、リナックス、ウィキペディア、フリッカー以外にもあるさまざまな協働の動き、こういう非営利で始まったものとビジネスとのハイブリッドなど、参考にはなる。
 
そして日本でも、世代が変わりつつあって、行政も、法律家も徐々に変わりつつあるのを感じている。旧来のコンテンツを扱う企業の警戒心は依然として強いようだが。

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