メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

リヒャルト・シュトラウス「サロメ」(メトロポリタン)

2012-09-30 14:57:09 | 音楽一般

リヒャルト・シュトラウス「サロメ」

指揮:パトリック・サマーズ、演出:ユルゲン・フリム

カリタ・マッティラ(サロメ)、ユーハ・ウーシタロ(ヨカナーン)、キム・ベグリー(ヘロデ王)、イルディコ・コムロージ(ヘロディアス)、ジョセフ・カイザー(ナラボート)

2008年10月11日 メトロポリタン歌劇場 (9.2012 WOWOW)

 

サロメもメトロポリタンとなると、舞台は最初から最後まで明るく、ヨカナーンが入れられている井戸のようなところ以外は、すべてがはっきり見える。これには見えるものについてあまり考え込まないで聴いていられるというメリットがある。

舞台右側はパレスティナ、エジプトなどを思わせる砂漠の中にある階段のようなところ、真ん中の井戸から左は現代の部屋、登場人物はほとんどが現代の衣装。

衣装が現代というのは昨今非常に多いからか、あまり抵抗感はない。主要登場人物の人となりと関係がわかれば、あとは音楽が、という作品でもあるし。

 

サロメのマッティラは体格が立派すぎて最初心配したが、聴いていくうちにあまり違和感はなくなっていった。それはヨカナーンも同じで、きわめて大柄だから、これが処刑される預言者というのは変な感じなのだが表現力はある。

 

サロメの歌手はイゾルデの声を持った少女でなければ、という話があるそうで、確かにマッティラは次第に圧倒される。心配したサロメの「七つのヴェールの踊り」もよくやったと言える。もっとも露出度をこのくらいに抑えたのはヨーロッパとちがいアメリカではここまでという事情があったのかもしれない。

 

サマーズ指揮のオーケストラも表現力は十分、いたるところで「サロメ」よりだいぶ後に作られた「バラの騎士」を連想させるフレージングが聴こえたのは、私にとって今回の発見だった。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩とことば(荒川洋治)

2012-09-29 09:47:25 | 本と雑誌

詩とことば 荒川洋治 著 (岩波現代文庫)

2004年に刊行されたものをもとに2012年文庫となった。

 

荒川洋治は詩人だが、ラジオ(TBS)での話が詩から文学一般また言語一般にわたっていて、とても面白い。というところから読んでみた。

 

詩人でありながら、詩というものをこういう風にわかりやすく説明してみせるということはめずらしいだろう。

その一方で、昨今現代詩が話題になることが少ないことには無念というのだろうか、後半は書きたいこと書いているようだ。確かに詩よりは散文の方がものごとを客観的に正確に書くと考えられるのだが、著者も書いているように、それが案外とおりいっぺんの表現、自分が確信していない上すべりの表現だったりすることはある。それに比べると詩は、流れとしては無理があっても、何か絞り出したような凝縮したものがあって、読むうえでも、また普通の人が書くうえでも、もっと意識していいのではないか、ということを、今回読んで感じた。

 

また私と歳が近い著者は、1970年前後は評論の季節であり、それは政治の季節ということが背後にあったわけだが、多くの人が書かれるものに今より熱っぽい興味を持っていた。そう思うし、私もかなり読んでいた。そんな中で、現代詩、詩人についても今よりもっと知られ語られていたということは著者のいうとおりである。

 

そして、そういう現代詩の詩人たちの詩集は、刊行された形で入手が困難なものも多いらしい。図書館にいけばあるものではない。

それを発掘している人たちもいるようだ。今後それらを単にアーカイブすればいい? といってもある程度出て淘汰されてというのではないから、そう簡単な問題ではないかもしれない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラヴェル「こどもと魔法」

2012-09-28 14:24:47 | 音楽一般

ラヴェル:歌劇「こどもと魔法」

大野和士指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、演出:ロラン・ペリー

カトゥナ・カデリア(こども)他

グラインドボーン合唱団

2012年8月19日 グラインドボーン音楽祭歌劇場

 

先の「スペインの時」と同じ日に同じ場所で上演されたものである。こちらの方が後なのだろうが、両方に出ている歌手もいる。みなさん好きなんでしょう。

 

勉強をしているこどもが母親にしかられた腹いせに、勉強をやめ、周りのものを壊したりしているうちに、家具や食器、動物などが出てきていかにこの子に苦しめられたかを訴える。

この擬人化された舞台、歌つきのバレエといった方がいいかもしれない。こどもは結局かれらが普段どういう扱いをうけているかを、そのうらみを知らされるわけだが、そのあたりの表現はかなり辛口で、アニメなどと同様フランスらしいなと思う。台本はあの小説家コレットである。

これに比べると日本はもう少し甘いし、アメリカにいたってはさらに人畜無害である。

 

最後のところの決着は反対に非常にシンプルに、そしてほとんど説明なしにそれでいて結局はストンと自然に落ちてくる。これはこどもに対するものとしても見事であるし、ラヴェルの音楽のフィナーレもいい。

 

衣装も含め、ロラン・ペリーの演出は「スペインの時」よりこっちの方がこの人の色がでているのかもしれない。森の木のうごきなども面白い。

大野和士の指揮はてきぱきしたものだった。

前半で定番のウェッヂウッドのティー・カップが擬人化されて出てくるが、これが磁器つまりチャイナだからだろうか、歌詞の中に「ハラキリ、セッシュウ(雪舟)、ハヤカワ(早川)、、、」とあるのは、前にも聴いたのを思い出したが、再度びっくり。初演は100年も前ではない。

 

ラヴェルの音楽としては、これはもう円熟したバレエ音楽作家(ダフニスなどの)のものである。一方「スペインの時」はもう少し早い時期のものだが、すでに晩年のピアノ協奏曲を連想させる。

 

「こどもと魔法」の録音で手元にあるのは、エルネスト・アンセルメが指揮した1950年代中ごろのLPレコード。一度は聴いたはずだが、やはりこういう作品、ストーリーもこういうものだし、半分バレエみたいなものだから映像で見ないとよくわからない。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラヴェル「スペインの時」

2012-09-26 21:59:54 | インポート

ラヴェル:歌劇「スペインの時」

大野和士指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、演出:ロラン・ペリー

ラミロ(ラバ引き):エリオット・マドーレ
トルケマダ(時計屋):フランソア・ピオリーノ
コンセプシオン(トルケマダの妻):ステファニー・ドストラック
ゴンサルヴェ(若者):アレック・シュレイダー
ドン・イニーゴ・ゴメス(銀行家):ポール・ガイ
2012年8月19日 グラインドボーン音楽祭歌劇場

 

この一幕一時間弱のオペラ、題名は知っているが見るのは初めてである。これは映像で見るほうが理解しやすい。

 

スペインの時計屋、主人は客(ラバ引き)を一人残して外出、そのあと妻とわけありらしい二人が来て、先の客も含めた三人が顔をあわせないように妻がたちまわるという、よくあるちょっと好色などたばたが繰りひろげられる。

そのなかで、いくつもの時計がうまく使われ、登場人物それぞれにとっての「時」を観客がなにかしら感じるように全体ができている。といってもその時間感覚というのは、そうたいそうな深刻なものではない。

 

そして音楽はというと、これは特に名旋律があるわけではなく、むしろ天才ラヴェルが舞台効果に専心したものというべきだろうか。

 

そして、途中から案外この人が重要人物?と予想したラバ引きのエリオット・マードレが存在感も表情もなかなかだった。

 

大野の指揮はアクセントがきいたもの、ペリーの演出はコンパクトな舞台を使って無駄のない動きとなっていた。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワーグナー「ワルキューレ」(ミラノ・スカラ座)

2012-09-21 15:19:41 | 音楽一般

ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」(「ニーベルングの指輪」第一夜)

指揮:ダニエル・バレンボイム、演出:ギー・カシアス

サイモン・オニール(ジークムント)、ワルトラウト・マイアー(ジークリンデ)、ヴィタリー・コワリョフ(ウォータン)、エカテリーナ・グバノヴァ(フリッカ)、ニナ・シュテンメ(ブリュンヒルデ)、ジョン・トムリンソン(フンディング)

2010年12月7日 ミラノ・スカラ座  2011年12月NHK BS-Pre

 

「ラインの黄金」に続く「ワルキューレ」、演出は同じギー・カシアスだが、今回は光の動きが少し多すぎて音楽を聴いているものとして集中しにくいところがあるのを別とすれば、今回はシンプルである。

ウォータンとフリッカは歌手が変わっている。特にウォータンはどうなのかと思ったが、前作とこれでは悩みの性格がちがうからこれでもいいのかもしれない。

 

ジークリンデのワルトラウト・マイアー、イゾルデもやる名歌手だがジークリンデはもう少し声が軽くてリリックな人?と思って聴いていると納得させらてしまった。ブリュンヒルデの変心と同じように。

ジークムントはあのノートゥングを持たなくても、フンディングをおそれなくてもいいのでは、という体格、風貌。

 

ブリュンヒルデのニナ・シュテンメ、最初はちょっと声がかたいかなと思ったが、ジークムント、ジークリンデ、そしてウォータンを相手に、見事な歌唱だった。それにしてもブリュンヒルデという役、こんなにしんどい役は一生に何度歌えるだろうか。

 

このワルキューレはワーグナーの作品としても、そして他のオペラをいれても、トップに近い回数聴いていて、本当に好きである。今回こうして聴いていても、最初のメロドラマから最後の父と娘の別れの音楽にいたるまで、どこをとってもつまらないところがない。

これは、登場人物が少なくて、誰かが誰かの心を変えていくという流れだからで、そうなるとオーケストラの役割は大きく、しかもライトモチーフが次から次へと出てきて、浸りきることができる。 

 

そういうところでバレンボイムが指揮するスカラのオーケストラは、稠密な音でよく歌い、こちらの心臓をわしづかみにしてしまう。

 

最後、ウォータンがローゲを呼び(そう名前を呼ばれるだけで姿は見せない)、眠るブリュンヒルデの周りに火を放ち、別れを告げるのだが、ここで話は終わりとなったのち、もう少し音楽が続くところは、父の娘に対するやさしさ、というよりワーグナーが思わず見せてしまったやさしさだろうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする